今となっては半世紀前、
関西に住んでいた私の幼いころなんて
死ぬまでに1度でも北海道に行けたらいいな、
夢のハワイなんて、あまりにも夢すぎて
願望の対象にすらならなかった。
テレビのクイズで10問正解できたら別だけど。
半世紀前までも遡らなくても、
四半世紀前くらいなら、
定年後には何としてでもアンコール・ワットを一目見たい
なんて意気込みで、勤続中、旅行積み立てに余念がなかった
という人も決して少なくなかったと思う。
要するに旅行は「絶対」だったのだ。
何としても行きたい所に、何としてでも言ってやる
とまで言うのはオーバーにしても、
各自それぞれの目的地に、強い思いを込めて出かけようとしていたのだ。
それが今や、ネットやテレビの旅行情報、グルメ情報に
「何となく、いいね」みたいな感覚で
ちょっと休みが取れるたびに出かけていく。
思い入れや、こだわりがなくても
毎日毎日、朝昼晩、メディアに登場するレポーターに乗せられ
いとも簡単に、価値観の共有ってやつですかね。
片や観光客の受け入れ側でも、
あまた溢れる同業者間での、観光客の争奪合戦に巻き込まれ
値段競争、サービス競争は静まることなし。
そういう犠牲を肥やしにして
ますます旅行が手頃で身近な商品になっていく。
音楽の世界も、なぜかよく似た状況だ。
たとえばフォークブームと言われたころには、
「拓郎派か、陽水派か」なんて
まるで何教を信仰するか、ごとき感覚で、
リスナーのそれぞれが、好きな音楽へのこだわりを堅持していたけれど
今は、サブスクなる聴き放題で、何となく流行っていそうな音楽を
BGM感覚で、聴くと言うよりは、右の耳から左の耳へと素通りさせているような。
「たまならく好き」という曲を、円盤により所有する
なんて行為は、まさに絶滅危惧種となりつつある。
旅も音楽もこんなことでいいのだろうか。
ありふれたものを体験することは、どれほど楽しいだろうか。
いやそんなことより、観光地も音楽家も、そのうち疲弊しないだろうか。
心をこめて、時には赤字覚悟で、もてなしたって
お客はすぐ、別の場所に目移りする。
時間をかけて一生懸命いい音楽を作ったところで
聴かれた分だけパイを分け合う、五月雨式の出来高払い。
そんなことでは音楽活動の継続はおろか、生活すらも維持できない。
行き着くところ、観光地は輝きを失い、
いい音楽も、生み出されにくくなっていく。
残されたものは「価格破壊は文化破壊」という教訓1つ。
昔は良かった、と言い続けられればまだましだが、
良かった昔を知らない人ばかりになりはしまいか。