もう今に始まったことではない。

たぶん20年ほど前からその兆しはあったような気がするが、キャスターの付いた箱型カバン(キャリーバッグ)を転がして旅行や出張に出かけるというのが日本人の間に定着した。

それまでも海外旅行では、キャリーバッグの親玉のようなキャスター付きスーツケースが重宝されていたが、それは持ち歩く本人の負担軽減のみならず、勝手知らぬ海外での安全性や、カバンも飛行機で長距離を旅することから、その堅牢性を買われてのことだったかと思う。

それがいつの間にか国内旅行や国内出張でも、大きなキャリーバッグを引きずるというのが当たり前の姿になった。

 

駅や空港で、そういう人々の増えることは、周りの人々にとっては迷惑だし目障りだし危ないし、カウンターでの手続きや、車両の乗り降り、乗り換えの際も時間が余計にかかってしまう。他人への迷惑というと、これらが筆頭に挙げられるが、その程度では収まらないような変化をもたらしているのではなかろうか。

 

旅行にせよ出張にせよ、それは日常から離脱して非日常に身を置くわけだ。ひげ剃りだとかドライヤーは宿にあるもので間に合わせようとか、我慢できることは我慢しようとか、できる限りの身軽さをよしとした。

しかし少々モノを詰め込んでも運ぶのが苦にならないキャリーバッグの登場で、普段家で使っているものは、バッグに入るだけ入れてやれ、みたいな考え方に変化してしまった。

たとえば出張で同行した若い人など、1泊2日程度で、機内持ち込みギリギリサイズのキャリーバッグに、情報機器だの着替えだの荷物満載。わが家ではないのだから、これはあれで代用しよう、というような頭の使い方もしなくなったように思える。

 

地球上のどこにいたって不自由のない日常生活を貫きたい。一昔前だったら「この我慢なしが」という目で見られたふるまいが、今では、ごく普通のこととなっている。

 

かつてなら、わざわざキャンプに来ているのにテレビなんて視なくていいでしょ、と思うのが普通だったはずだけれど、今やキャンプに来ても簡単にテレビを視られるし、スマホで情報検索、SNSも当たり前。情報というソフトウェアとの接触に日常と非日常の境がなくなったわけであるが、何でも呑み込むキャリーバッグは、生活用品というハードウェアでも、日常と非日常の境を取っ払ってしまったようである。