作品について | ソーダ水の夏
美術を初めてまだ1年くらいしか経っていない。だからというか、知り合いの絵描きさんに
聞いた「何を描くか」が決まるまでが一番大変…という問題に自分も最近到達してしまった。

美大を出たわけでもない素人の自分が…と遠慮というか言い訳をしていたけれど、最近は
もう開き直って下手でもなんでもやってしまえとお金のかかる展示に出してみたり、ブログやったり
してみると、やはりこの世界は描かないとダメだと痛感した。(ごく当たり前のことが分かるのにも
時間がかかる…)普通ならデッサンとかやるのにやらず、普通の絵画じゃなくて何をしたいんだか
分からず、ただイメージで描くのにひたすら前描いたのと違うことをしようと思っていたけれど、
それもネタが尽きるようになってしまった。そもそも、画家っていつも同じような題材を描くのは
ネタがないからなんじゃないかと失礼なことを考えてしまった。ずっと追いかけていたい
自分にとっての題材があるからそうなんだと今はわかったけれど。

描いたものがなんだか自分でもわからない。なぜ描くのかもわからない。
このままでいいのか。そう考えていて、自分の絵をもう一度考え直すことにした。そして、
自分の描く絵を「静物画」として考えることを思いついた。そもそも静物画とは本当は机の上
なんかに並べた果物とかコップや楽器を描くもので、昔の観点からするとあんまり格の高い
モノじゃないらしい。でも、私が好きだと言っているモランディの描いた静物画はなんだか
見ていると不思議な気持ちになる。それらが生きているような感覚がある。
自分の描いたものによく登場する木もビルも鳥も果物もコップも、私にとって身近なものを
集めて並べたようなものなのだ。私にとってはそれらをそっくりに描いたり、遠近法を使って
描いたりすることよりも、それらが調和してそこに並んでいることが意味があるようだ。
そして、育てることは全く苦手でできないけれど、見るのが好きな豆盆栽や小さな多肉植物の
寄せ植えやアクアリウムみたいに、それぞれが調和して息づいている小宇宙のようなものが
作れたらと思った。
まだまだ、それができているとは思えないけれど、
自分の作品を「プランツ」(植物たち)と呼びたいと思う。
見ている人の頭の中で生きていく、植物たちとして。

目標は大きく持ちたい。今まである美術の方法ではなく、それから「クールジャパン」とか
「マイクロポップ」とかいっている変なアニメや漫画めいたものの仲間にされるのではなく、
見た人に何か伝わるものが作りたい。だたの可愛いだけのものが作りたいのではなく、
独りよがりの押しつけの作品ではなく、見てふっと日常から楽になれるものが作りたい。
グループ展のための作品は、この「プランツ」を思いつく前に作ったものばかりだけれど、
「プランツ」としてうまく見た人に届けばいいなと思う。