人はなぜ存在するのか 齋藤孝 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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人はなぜ存在するのか

著者 齋藤孝

発行所 株式会社実業之日本社

2012年12月25日第1刷発行

 

 

猪名川町立図書館さんにてお借りして

 

読みたいところから読ませて頂きました。

 
 
 
第2章 哲学や宗教は「存在」をどう捉えているか
 
ハイデッガーに問う
 
 ●死への「先駆的覚悟性」が人間の姿
 
 ドイツの哲学者ハイデッガーは『存在と時間』の中で、
「人間は自分自身が
時間性の中で生きていること(死ぬということ)
を意識している点で特別な存在だ」
という意味のことを書いています。
『存在と時間』は
そもそも人間について語ったものではなく、
存在とは何か
ということを突き詰めていったら、
人間と時間性との関係
に行き着いたというものです。
 存在とは「ある」ということです。
その「ある」とはどういうことか。
 そんな哲学的な問いの答えを考えるとき、
人間という存在(「現存在」)がないと、
その問いさえ成り立たないことになります。
 生物が何もいなかったとすると、
そこには意識がないので、
「ある」ことが問題になるということはあり得ません。
「ある」ことが問題になるのは、
「ある」ことを意識し、
問題にしている何者かが存在するときだけです。
その何者かが人間なのです。
 物事が「ある」のは「現存在」、
つまり存在の意味を問う人間のあり方にかかわっています。
 簡単に言うと、
人間はいろいろなことを意識している存在です。
その中で最も重要なのは、
人間は死を意識しながら
自らの存在意義を考えるというあり方をしてしまうことです。
その点において、人間は特別な存在なのです。
 さらに、死ぬことを前もって意識して覚悟を決める、
死への「先駆的覚悟性」を持って生きています。
 それが人間の本来的なあり方であり、
実存主義の考え方にもつながっていくのです。
 自分はいつか死ぬのだから、
現在どうしなければならないのかを意識する。
それが人間における存在の本来のあり方だとすると、
おしゃべりに興じたりして
死への不安をごまかしながら生きるのは非本来的なあり方です。
 その生き方は死への不安をごまかすものです。
いかにうまくごまかし続けても、
不安な気持ちに襲われるはずです。
 
●「無の不安」と向き合う
 
 『葉隠』には「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあります。
「死」があって、それを前提に「生」を考えるのですから、
「無」を見つめる精神の強さがあり、
禅の精神ともつながります。
ハイデッガーも、
禅の十牛図(悟りへのプロセス)に共感しています。
 誰にとっても「無」は怖いもの。
「無」とは自分の存在価値がないということだからです。
 そんな深淵をできればのぞきたくないと思う人々は
おしゃべりに興じ、那那的
(ハイデッガーのいう非本来的)な生活を続けて、
死を意識することを避けつつ、死に近づきます。
 そいう生き方もあるでしょうが、
人間はいつか死んで「無」になる、
あるいは生きている裏側には
常に「無」が貼り付いているのだ
といった「無の不安」と向き合うと、
覚悟が決まるはずです。
これは「攻め」の生き方といえるでしょう。
 ハイデッガーは実存主義者と呼ばれることを否定しました。
しかし、「人間は時間的存在であって、死を意識する。
それならどう生きるべきか」という意味のことを言った点で、
実存主義的だと評されることもあります。
 一般的に、実存主義といえば
キルケゴール(デンマークの思想家)や
サルトル(フランスの文学者・哲学者)が有名です。
 その基本的な考え方は
「自分はこの世界にいや応なく投げ出されているが、
選択によって未来をつくることができる」というものです。
 人間は不条理な世界に、不条理に投げ込まれており、
好き好んで今の環境に生まれたわけではない、何もできないわけでもない。
選択によって自分で自分自身をつくっていける存在である、と。
 この考え方は、「披投的投企」と言います。
投げ込まれていながら、自分でも次の自分を未来に投げかけている。
それが実存主義の人間の捉え方なのです。
 

第3章 自分の「存在」を確立する20の方法

 

02 禅の修行をする

 

●仏陀の修行を追体験

 

 禅を学ぶことも存在意義の安定化に寄与します。

禅の修行の一環として、

独り壁に向かって座り続けることによって、少なくとも

他者に自分を承認してもらわなければ存在できない弱さ

とは無縁になれるからです。

 自己をしっかり見つめれば、

他者に認めてもらわなくても

存在意義をつかむことができるようになります。

現代社会に生きる人々は他人に何か言われると、

すぐに嫌になってしまう傾向があります。

それがツイッターやブログでも、

ちょっとネガティブなことを言われたら耐えられない。

 その象徴的な事件が

二〇〇八年六月に東京・秋葉原で起きた通り魔事件です。

その犯人はリアルな世界で友だちがいなくなった揚げ句、

頼みの網だったはずのネット上の知人たちにも否定されて、

世の中全体が嫌になり、凶行に走りました。

 周りの他者から認められないと

不安が募って自分の存在意義が感じられなくなり

果ては自暴自棄になってしまうのです。

誰かを殺したかったわけではなく世の中全部が嫌になったのです。

「自分を認めてくれない世の中ならば、ないほうがいい」

という具合に自分自身が自殺するのではなく、

世の中に対する恨みにつながっていったようです。

 仏道の習い方の方向性は二つあります。

仏陀の思想を学んで理解しようという方向性と、

仏陀自身の体験を自分の身体で試してみようという方向性がそれです。

 誤解を恐れずに言うならば、

後者は「神秘主義」といわれるものです。

「神秘主義」とは自分の体で悟りや啓示を体験しようとすることです。

悟りの概念や仏教の基本的な考え方なら、

本を読んだり講義を受けたりすればわかるようになりますが

自分自身が悟りを開くことはまったく別のことです。

仏陀が「悟った人」ならば

自分も実際にそのような境地に至りたいと求めるのが

禅のうちの「神秘主義」なのです。

 出家して仏の教えを守って生活するのもその一つの方法ではあります。

しかし、禅はもう少し踏み込んで、

自分自身が仏陀になろうとする大胆なチャレンジだと思います。

 

●「気分」を超えた「境地」をつくる

 

 禅は

栄西(臨済宗の開祖)と道元(曹洞宗の開祖)

によって中国から伝えられ、日本で花開きました。

日本では武士が剣術を磨くために、不動心、

つまり揺らがない心をつくる禅の思想が重んじられ、

それは文化的にもいろいろなところに浸透していきました。

たとえば、能や茶道には静けさのある禅的な空気が漂っています。

 禅は自分の存在を肥大化させようとはしません。

自分はここにいるのだけれど、自分を落としていこうとします。

 道元の『正法眼蔵』には

「仏道をならうというは、自己をならうなり。

自己をならうというは、自己をわするる」とあります。

これは「仏道を習うことは自分を忘れることだ」という意味です。

私たちが思うのと違って、「習う=覚える」ではないのです。

『正法眼蔵』には「心身脱落」という言葉もあります。

これは、「身と心を落としていく」ということ。

「放下」ともいい、

身も心もいっさいの執着を捨て去ることを意味します。

「心身脱落」した人は、そこに石が一つ置かれているかのようになります。

 人間の心は揺れ動きますが、

禅の修行をしている人の心は揺れ動きません。

覚醒はしているので、

背後からちょっと脅かすようなことをすると

さすがにそのときは反応します。

ところが瞑想時に出る落ち着いた脳波であるアルファ波に戻るのが早いらしい。

つまり、目覚めているのだけれど、変に動揺したりはしない。

「気分」を超えた「境地」をつくることができるのです。

この「境地」は心のワザです。

それを獲得しようと思ったら、

心から喜怒哀楽といった感情の領域を減らしていき、

精神を見つめる目そのものになることが必要です。

自分自身の心の浮き沈みを、極力なくしていくわけですが、

鈍感になろうというわけではありません。

精神の強靭さを獲得し、

少々のことがあっても慌てふためいたりしなくするのです。

 オリンピックなどの大舞台でも動揺しない選手をよく見かけます。

みんなが緊張している中で、

独りだけ別次元にいるような動きをしたりしているので、

「この選手、悟ったんじゃないか」と思うことがあります。

私はそこに現代的な仏陀を見ます。

 日本レスリング界の父と呼ばれる八田一朗は、

東京オリンピックの前後に日本の男子レスリングを鍛え上げました。

その方法は非常に独特です。

夜中にいきなり選手をたたき起こしたり、

照明や音楽をつけっぱなしにして寝させたりするなど、

ストレスがかかるようにして選手の精神を鍛えたそうです。

 そこまでやると、どんな状況でも寝られるようになりますし、

どんな状況でも戦えます。

男子レスリングの全盛期には、

そんなふうにして選手に強いメンタリティを獲得させていたのです。

 ところで、禅の修行の場はお寺だけに限りません。

宮本武蔵は武術の修行を通じて禅の修行をしました。

武蔵が書いた『五輪書』は

「地」「水」「火」「風」「空」の五巻から成っています。

その「風」の巻には

「融通無碍な動きができる。それが悟りの境地だ」

といった意味の記述があります。

 武蔵は命を懸けた果たし合いをしていたので、

君主に仕えるという意味での武士道とは違います。

切腹などとは無縁の発想で、

一対一の対決でどうやって自分が勝つかを追求し、

目線の動き、刀の振り下ろし方、

間の取り方などを多角的に考えました。

 そして、「自由に動く柔らかな身体をつくる修行を通じて、

悟りの境地が得られる」

という認識にたどり着いたのです。

私たちの多くは剣術をしませんが、

ほかのことを通じて武蔵と同様の修行をするのは可能だと思います。

 スポーツでも音楽でもうまくいったときを何度でも再現できるように、

繰り返し練習するプロセスはそれ自体に

禅の修行に通じるものがあるのではないでしょうか。

型を修得することで状況に応じた柔軟な動きができるようになる。

これが目指すところです。

 

06 自分の世界をつくる

●外界と遮断された時間を持つ

(略)

 

●手面的な要素を持つゴルフ

 

 そんな趣味を中でも多面的な要素をっ持っているのがゴルフです。

 ゴルフ人口は中高年の男性に多いのですが、

彼らがゴルフをする理由の一つには、

コミュニケーションを取ることが挙げられるでしょう。

 十八ホールをラウンドし、風呂に入り、食事をする。

かなり長い時間を一緒に過ごすわけですから、

打ち解けて話もできます。

 初対面の人とでも長時間一緒にいる中で

会話できる点は大きな魅力です。

それは趣味でありながら、

一方で仕事の人脈を広げることにもつながります。

 こうしたコミュニケーションの要素に加え、

ゴルフには技術を磨くという要素もあります。

 かつては電車を待つちょっとした時間にも、

ゴルフのスイングをしているおじさんの姿がよく見られました。

それは何だかとても幸せそうに映ったものです。

 その人にとって、ゴルフが上達することは恐らく

当面の「最重要課題」のはずです。

生活の中で気になる課題、つまり

克服すべき弱点や磨くべき技術を常に抱えて生きていると、

精神のバランスが保てます。

 人間には欠落感や不全感を埋めていくときに、

自分の存在意義を感じる面があるからです。

 この不全感で私が思い出すのは、

評論家の呉智英さんの『健全なる精神』に収められている

「一つまみの不幸の塩っぽさ」というエッセイです。

 その中には「昭和三十年代には、

未来には幸福が来るという希望があったのではない。

今もなお一つまみの不幸が残っているというしょっぱさがあり、

それが人間や社会に陰影を与えていた。

それが昭和三十年代の魅力だと思う」

といった意味の文章があります。

 私はそれだけでなく、

その「一つまみの不幸の塩っぱさ」が、

あのころの活力の源になっていたのではないかと思います。

 つまり、うちにはテレビがないとか、車がないといった、

まだ満たされない何か、つまり

不全感が活力の源だったと思うのです。

 ところが、今は何でもそろいます。

当時の三種の神器のように、

「これを手に入れたら本当に楽しいだろうな」

と思えるものが欠落しているという

不全感は影をひそめてしまいました。

 それは精神にとって刺激のない状態です。

自分の存在意義を感じるためには

適度な刺激が続いていくことが大事です。

 その点、ゴルフをすると、

たった一つの技術でさえも磨ききるのはままならないので、

不全感という刺激が続きます。

 私は練習で打つ程度ですが、

ゴルフクラブを振ったことがないころは、

「止まっている球を打つから楽だ」と思っていました。

ところが、実際にやってみたらとんでもない。

球が止まっているからといって、簡単とは限らないことがわかりました。

 さらに、いつでも同じように打てるわけではないという

もどかしさにも直面しました。

技術としてまだ身についていないスイングに、

向き合わざるを得なくなったのです。

 先日、あるゴルフ雑誌でプロゴルファーの合田洋さんと

『言志四録』(江戸時代の儒者・佐藤一斎の著書)

をめぐって対談をしました。

江戸時代の生の心構えが、

ゴルフにはピッタリはまる、ということでした。

心の構え、技の会得という点では、

いろいろなものがつながっているのです。

 ゴルフは技術と精神の安定が問われるスポーツです。

それが上手でも下手でも生活には影響しないでしょう。

だからこそ、どうでもいいことに夢中になるのも

人生のバランスを取る意味では大切だと思うのです。

 

 

興味のあるところだけ、

 

サラッと読ませて頂いただけですが、

 

あらためて

 

『五輪書』

『言志四録』

柔軟性

 

に興味が湧きました(笑)。

 

 

 

それでは、皆様、本日も

 

楽しくお過ごし下さい。

 

 

 

最後まで読んで頂き、

 

ありがとうございました。

 

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