親鸞と道元 平岡聡 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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親鸞と道元

著者 平岡聡

発行所 株式会社新潮社

2022年2月20日発行

 

 

猪名川町立図書館にてお借りして

 

読みたいところだけ

 

自分勝手に読ませて頂いています(笑)。

 
 
 
 宗教とは何か
 宗教の定義は多種多様だが、ここでは宗教の本質を突いた
西谷[196]の宗教論
を取り上げたい。
 西谷は冒頭で「宗教は我々にとって何のためにあるか」という問いは、
宗教の本質からいって、問いとして間違っていると言う。
問題なさそうな表現だが、ここにこそ宗教の本質が隠されている。
この間違った問いを破るには、
「我々自身が何のためにあるか」
という問いを立てなければならないと西谷は言う。
これは
「我々自身が"絶対なるもの(人間を超越したもの)"にたいして、いかにあるべきか」
と言い換えてもよい。
 宗教は基本的に
”人間(相対者)"と”人間を超えた存在(絶対者)"との関係を基軸にしている。
そして人間を超えた存在との関わりの中で、
現実の人間のあり方に何らかの変化が生じる。
この変化は「自己の存立基盤の変更」であり、
私はこれを「自己の相対化」と表現する。
こうして人間の生が根底から更新されることで、人生の根本問題が解決され、
人生を有意にとらえ直す地平が開ける。
ここに宗教の本質があると認めるなら、さきほどの問題は氷解する。
「宗教は我々にとって何のためにあるか」という問いは、
その問い自体がすでに"自己中心性"を含んでいる。
我々自身を円の中心に置いて宗教を周辺に追いやり、
「宗教って何なの。何かいいコトしてくれるの。
信じて得するなら信じてもいいけど、そうでないなら信じないよ」
という自己中心性を言外に含んだ問いなのである。
 だが、宗教は円の中心に自己を超えた存在を置き、それによって自己を相対化する。
人間は中心から円周に場所を移さなければらない。
だから、「人間を超えた存在にとって、我々の方がどうあるべきか」
が問われなければならないのだ。
宗教は自己中心的な人間のあり方を否定し、自己を相対化するので、必ず自己変容を伴う。
 キリスト教であれば、中心に位置するのは神(あるいは神の子イエス)であり、
その神にたいして我々がどうあるべきかが問われる。
「もはや私が生きているのではない。キリストが私の内に生きているのだ」
「ガラテヤ人への手紙」二・二〇)というパウロの言葉がこれを端的に示している。
 一方、神の存在意義を認めない仏教において、中心に据えるべきは
「法(真理)」(この場合の「法」は「法身」としての仏も含まれる。
阿弥陀仏は浄土宗学では「報身」とされるが、その本質は「法身」)であり、
これによって自己を相対化する。
 仏教の中でも、親鸞仏教を含めた浄土教では阿弥陀仏が中心に坐り、
その阿弥陀仏にとって我々がどうあるべきかが問われることになる。
つまり、自己変容を伴うのが宗教であり、
自己がすべての中心に坐り、したがって自己変容を伴わず、
かえって自我が肥大化するようなあり方は、宗教とは正反対なのである。
とすれば、「自力」とみなされてきた道元仏教にも他力性が確認されるはずだ。
 
 道元仏教の他力性
 では、「他力」という観点から道元仏教を眺めてみよう。
意外に思われるかもしれないが、
さきほど指摘した視点で道元仏教をみると、他力性が散見される。
まずは本書で取り上げた用例からみていこう。
 本書の序章で取り上げた「現成公案」の
「仏道をならうとは、自己をならうことである。
自己をならうとは、自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、一切の存在によって悟らされることである」
のうち、傍線部の受動態に注目する。
仏教は我執を離れて無我を目指すので、
その我執を象徴する「私」を主語にして究極(理想)の状態は語り得ない。
「私」を主語にしたければ、このように「受動態」になるのである。
 この用例の少し前には、
「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
という表現もみられる。
自力を働かせ自我が主体となって万法を修証しようとするのは迷いであるが、
無我に徹しきれば、万法の方が自己を修証するのであり、これが悟りであると言う。
ブッダ成道の場面における「諸法が顕現する」と同趣旨である。
 つぎは、本書第六章でみた道元の「到彼岸」の改読と転釈。
ここでも「修行して私が彼岸に到る」とすれば、
そこに「修行する私」という自我が顕在化し、本来的な状態を表現できない。
ブッダ自身の悟りでも、最後の最後は「諸法が〔私に〕顕現した」ように、
ここでも「修行を通して、彼岸の方が私に到来する」という表現になる。
 さらに、『正法眼蔵』「生死」の有名な一節をみてみよう。
 
 この生死はすなわち仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするのは、
すなわち仏の御いのちを失うことになる。
[生死に〕留まって生死に執着すれば、これも仏のいのちを失い、
仏のありようを留めてしまうことになる。〔生死を〕厭うことも慕うこともなれば、
このとき初めて仏のこころに入る。(中略)ただ自分の身も心も手放し忘れて、
仏の家に投げ入れて、仏の方から行われて、これにしたがっていくとき
力をも入れず、心をも費やさずに、生死を離れ、仏となる。
 
 親鸞の言葉と見まがうほどの表現だ。傍線部分が如実に表しているように、
生死に関しては自力を放棄して大いなる仏にすべてを委ね、すべてを任せきり、
その導きにしたがっていくとき、力まず、心も消耗せずに生死を離れて仏になると言う。
これと同趣旨の表現は『随聞記』にもみられる。
 
 仏道を学ぶ人は吾我(自分)のために仏法を学んではいけない。
ただ、仏法のために仏法を学ぶべきだ。
その秘訣は、自分の身も心も一物残さず放ち捨てて、
仏法という大海原に任せ、委ねるのである(六・一)。
 
 ここでは身を委ねる対象が「仏」ではなく「仏法」だが、
基本的な考え方は同じであり、傍線部分は『正法眼蔵』と重なる。
このように、道元仏教においても、大前提となる基盤は「他力」だ。
 
 
 
 
全能感
 
なども含め
 
自分がやっている
 
というような感覚
 
も多少はあった方がいいのかも知れませんが、
 
過ぎれば足カセにあるような気はします。
 
いろいろなものに委ねているような感覚や
 
支えられていることへの感謝の感覚
 
は自分を助けてくれる強い味方
 
になってくれるのではないかな
 
と思います。
 
 

 

それでは、皆様、本日も

 

楽しくお過ごし下さい。

 

 

 

最後まで読んで頂き、

 

ありがとうございました。

 

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