日本オープンゴルフ選手権、堪能できたかなぁ?(笑) | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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第1日 10月12日(木曜日)

 

行かせて頂きました。

 

朝5時起きで(笑)。

 

image

 

 

 

私が直接担当させて頂いていないので

 

手前味噌でない

 

ということにして頂くと

 

あらためて

 

出場選手 120名

アマチュア選手枠 12名

 

によく入ったなぁ~

 

と思いますし、

 

今大会最年少 16歳

 

で大したもんだな

 

と思いました。

 

 

 

 

 

 

まだまだ、注目選手として出場できた訳ではありませんが、

 

 

 

今後、予選通過を果たし、ローアマチュア

 

銀皿、NHK杯、ボビージョーンズ杯

 

を目指して

(大それたことですが目指すのは自由です(笑))

 

大きく羽ばたいてほしいな

 

と心から思いました。

 

 

 

1日18ホール見させて頂いた感想は、

 

パットが入ってくれてたらなぁ~

 

という感じでした。

 

正確なショットはとても光っていました。

 

 

 

あらためてこうやって

 

ブログを書く段になって

 

 

 

 

こんな選手が出ていたんだと知って、

 

何ホールかでも見ておきたかったなぁ~

 

と思いましたし、

 

他にも見たい選手はたくさんいたなぁ~

 

と思いました。

 

 

 

中々レッスンの合間を縫って、

 

午前中だけ行ったくらいでは、

 

堪能はできませんよね(涙)。

 

 

 

冊子も見せて頂くと

 

 

 

日本オープンその歴史を振り返る
初代優勝者はアマチュアの赤星六郎
 
日本ゴルフの黎明期、米国に留学し、
本場で学んだゴルフを若きプロたちに伝えた赤星六郎。
日本オープン初代優勝者・赤星六郎の名は、
日本の競技ゴルフの基礎を築いたバイオニアとして、
まさに燦然と輝いている。
 
 現存する世界最古のトーナメントである全英オーナン
(TheOpen)が創設されたのは1860年。日本では江戸
時代末期、桜田門外の変が起こった年である。アメリカ
のゴルファーNo.1を競うトーナメント、全米オープン
(United States Open)が始まったのは1895(明治
28)年。前年設立されたばかりの全米ゴルフ協会(USGA)
の主催であった。
 第1回日本オープン(日本オープンゴルフ選手権)は、
全米オープンに遅れること32年、主催する日本ゴルフ
協会(JGA)が創設された3年後となる1927(昭和2)年
5月28、29日の2日間、神奈川県の程ヶ谷カントリー
倶楽部で開催された。程ヶ谷カントリー俱楽部は1967
(昭和42)年に新コースに移転しており、この年の日本
オープンが開催されたのは、現在は横浜国立大学の敷地
となっている旧コースである。
 すでに前年、日本プロ(当時の名称は、全日本ゴルプ
プロフェッショナル36ホール・メダルプレー争覇戦)、
そして関西オープンが開催されていたが、ともに36
ホールの1日競技。日本オープンは、2日間で72ボールを
戦う国内最初の本格トーナメントとなった。
 この第1回日本オープンに出場したのはアマチュア
12人、プロ5人の計17人。アマチュアの出場資格はJGA
が制定したばかりのナショナルハンディキャップで「8」
以内。優勝候補と言われた赤星四郎と弟の六郎、日本
アマ3勝を誇る川崎肇、日本アマ歴代チャンビオンの
1人である大谷光明ら錚々たるメンバーが揃った。プロ
は宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵、中上数一、関一雄の
5人である。
 当時のプロはみな若く、試合経験も少なかった。海外
でゴルフを学んできた赤星兄弟らトップアマがプロを指導
していた時代であり、アマの実力がプロを凌駕していた。
 初代日本オープン優勝者となった赤星六郎の実力は
なかでも抜きんでており、この大会で上位に入ったプロ
たちは皆、六郎の指導を受けていた。
 
プレーヤーとしてだけでなく、
兄・四郎と共にコース設計者としてし才能を発揮した赤星六郎。
我孫子GC、相模CCなどの名コースを残している。
 
アマがプロを教える時代
 
 赤星六郎(あかほし・ろくろう 1901-1944)は、薩摩
藩の郷士で実業家として知られる赤星弥之助の六男と
して東京に生まれている。米国のプリンストン大学に留学
したおり、大学の近くにゴルフ場があったことからゴルフ
を覚えゴルフ部に入部。全米オープン優勝者(1924年)
であるシリル・ウォーカーの指導を受け、めきめきと上達。
留学中の1924年に米国のトップアマが数多く参加する
トーナメント「パインハースト・スプリング・ミーティング」
に優勝するなど、その才能を開花させる。
 帰国後は東京ゴルフ俱楽部(当時・駒沢)で安田幸吉、
浅見緑蔵、さらには六郎から学ぶために大阪の茨木CC
からやって来た宮本留吉らを指導した。
 安田幸吉はJGAの「五十五年の歩み」のなかで「私が
20歳の頃、赤屋六郎さんがアメリカからお帰りになり、
そこで初めて私共は本当のゴルフを見せて貰ったのです」
と当時を語っている。
 
アマ2人目の優勝は95年後
 
 第1回日本オープンの最終ラウンド。2位に9打差を
つけた赤星六郎は、7番から3ホール続けて3パットの
「6」と乱れたが、それ以降は安定したプレーで78。通算
309で日本オープン初代チャンピオンに輝いた。最終
的には2位に10打差をつける圧勝だった。
 最終ラウンドで76をマークした浅見緑蔵が2位。ゴ
ルフ雑誌「ゴルフドム」(1927年6月号)は、第1回日本
オープンの模様を伝えた記事の中で浅見の善戦を称え
「ファースト・プロフェッショナルの名誉を得た」と評して
いる。
 圧倒的実力を誇る赤屋六郎、そしてその兄・四郎(1926
年の日本アマ優勝者、コース設計者として箱根CC、程ヶ
谷CC新コースなどを設計)らアマチュアゴルファーの
実力がいかに高かったがわかる記述といえるであろう。
 大本命のアマチュアが勝つべくして勝った第1回大会
であったが、19歳の浅見緑蔵が第2回大会で前年の
雪辱を果たすと、以降は著しい成長を逃げたプロたちが
日本一の座を争うこととなる。
 その後プロの時代は続き、日本オープン史上2人目と
なるアマチュアのチャンビオンが誕生するまでには、
95年の歳月を必要とした。2022年、蟬川泰果(当時、
東北福祉大学4年)の第87回日本オープン優勝が物語る
のは、日本のゴルフ競技の歴史そのものなのである。
 

 

 

本日から決勝ラウンドですね。

 

優勝の行方や

 

トップ選手のプレーぶり

 

に注目して

 

NHKプラス

 

をゆっくり見たいと思います(笑)。

 

 

 

では、皆様、

 

楽しくお過ごし下さい。

 

 

 

最後まで読んで頂き、

 

ありがとうございました。

 

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よろしくお願いいたします。

 

 

 

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