カラダにいいことをやめてみる 桜井竜生 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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カラダにいいことをやめてみる

本当に長生きするためのカラダの声の聞き方

著者 桜井竜生

発行所 株式会社講談社

2014年7月15日第1刷発行

 

 

猪名川町立図書館でお借りして、

 

ざっと読ませて頂きました。

 

 

 

 まえがき

 

(前略)

 命はだれにとっても一番大切である。

それなのに、健康を守る知識を学んだはずの医者自身が、自分を守れない。

それが現代の医学である。

医者に自分の健康管理をまかせたり、

「医者が言うことは全部聞こう」なんていうのは、ナンセンスだ。

 ちまたにあふれる健康法も同じである。

みな現代医学(西洋医学)の理屈をベースにして開発され、

効く効かないを判断、説明されている。信憑性があるだろうか。

医者の寿命が長くないのと同じように、

多くの健康法に疑問符がつくのではないだろうか。

 人が病気にかかるか、かからないか。どのくらい生きられるか、いつ死ぬか。

それらは、医学知識を持っているか、持っていないかに左右されないように思う。

 もっと言えば、医者のような医学知識なんかなくても、

健康で長生きする人がいっぱいいるのである。

病気が見つかるか見つからないか、

自分に合う治療法や医者に出会えるか、出会えないかなど、

複雑な要素の結果が健康だ。

 

(中略)

 

 やがて研修を終えて外科医になって気づいた。

私は病気やケガの対応はできるようになったが、

一番興味のある治療しないで済む方法、

つまり「病気にならない方法」はちっとも教えてもらえなかった。

ブラック・ジャックはヒューマニストではあるが、臓器を機械のようにに扱う。

今は自信をもって言い切れるが、

そんなことをすれば一生、不具合に悩まされるから、

可能な限りやめたほうがいい。

それでは、病気は治らないし防げない。

 私が外科医から漢方医になる過程は、自分はブラック・ジャックではないこと、

人は機械のように操作できる臓器の集まりではないことを知る過程でもあった。

 私たちは、現代医学に身をまかせすぎている。

その頼り方を少しゆるめてみてはどうだろうか。

そして、自分で自分の体のことを感じ、考えてもらいたい

 現代医学は、病気になってしまった患者に対応する力は持っている。

でも、今、生きている人たちの多くは、病気と健康の間で揺れているのだ。

その揺れをしっかり自覚し、揺れすぎた場合には、

早めに対策をとれるように自分の体を感じてもらえればと思う。

 また、世の中は、「カラダにいいこと」だらけである。

「カラダにいい」というキーワードがあれば、無条件に取り入れる。

でもそれでいいだろうか。

 人はみな違う。

特に体調が悪かったり、老齢だったりすると、

さらにその効果の違いに大きく影響される。

ただ、「カラダにいいこと」をため込むのではなく、

自分には何が合うのかを感じながら一つ上の次元の健康を実現してほしい。

 

 

第1章 「健康法」という病

 

3 体にいいものは変化する

 

(前略)

  東洋医学には年齢に沿った食べ物の法則がある。

自分が捕獲できるものを食べろ」というのである。

たとえば、若いころには、牛や豚など大型動物を狩猟できるので、その肉を食べる。

少しずつ歳をとると、ニワトリやウサギなどの小動物が狩りの対象になってくるので、その肉を食べる。

もっと歳をとると魚釣りしかできなくなるので、魚を食べる。

最晩年には五穀の採集が主になるので、穀物を食べる。

年齢によって体に合うものは違ってくるのだから、合うものを食べるのが健康にいいという教えだ。

 

 

第2章 「食べるもの」を選ぶよりも「食べないもの」を選ぶ

 

2 やせるよりも太る原因を取り除く

 

(前略)

乱暴な言い方だが、食べる量を減らして運動量を増やせば、

人はやせるのである。

それができないのは余裕がないからであり、

余裕がないのは体や心に原因があるからだ。

本当のやせ薬は、そこを改善する。

 

 

第3章 「医学にできないこと」を知っておく

 

4 医学もモデルチェンジをくり返す

 

(前略)

 治療に「ベスト」はない。正確に言うと、

いつも「現在ではベスト」あるいは「ベストと思われる」にすぎないのである。

だから、医学部でも、教える内容に「今のところ」「わかっている範囲では」

という制限をつけるべきだと思う。

 しかし、医学の教科書には、「今のところ」「わかっている範囲では」

といったわかりやすい表現は出てこない。

 たとえば、私が医学生だったころは、小腸の役目は「消化吸収」と書いてあった。

だが、今の教科書には「免疫中枢」と書いてある。

子どもの免疫中枢は心臓近くにある胸腺という器官だが、

思春期をすぎると胸腺は退縮し、免疫中枢がはっきりしなくなる。

現在では、その中枢が小腸だとわかってきたのである。

 そういえば、胃がんや大腸がんはよく聞くが、小腸がんはあまり聞かない。

昔からヨーグルトを食べて腸内細菌を整えている人は長生きすると言われている。

エビデンスはないものの、なるほどと納得させられる。

 

 

8 怒る医者がなぜいるのか

 

(前略)

 おそらく内科の医者は、医学部で受けた教育そのままに、

糖尿病を治すには現段階では、この方法がベストだと確信し、

患者にその治療法を行っているのだろう。

自分は患者を治したい。患者は治してほしくて来る。

ならば、「何でも言うことを聞いて当然だ」とり論法になるようだ。

そして、ついエラそうな態度に出てしまうのではないだろうか。

患者を治したい一心で

医者は正義。健康管理ができていない患者は悪

という図式が診察室に蔓延するのだ。

 一方、東洋医学外来は、そこまで善悪がはっきりしていない。

だいたい患者を締め付けたり怒ったりするような根拠となる絶対的なデータもない。

ゆるやかで柔軟性がある。脈や腹で患者の状態を把握するが、

現代医学で患者の状態を断定する血糖値やへモグロビンAlcなどのような聖典めいた数字もない。

健康管理があまりできていないなと感じても、「しばらく様子を見ましょう」と言う。

 また、東洋医学は、病気や体の状態が感情と密接に関係しているという五行論を持つ。

怒り、喜び、憂い、悲しみ、驚きが病気を引き起こしたり、悪化させたり、

また、改善させたりすることを知っているから、医者は怒って患者にストレスを与えたりしないのだ。

 さらに、現代医学では、治る目標を血液検査などのデータに置くが、

東洋医学では、脈や腹、その人の元気になったという自覚を目安、目標にする

そのため、強権的に患者を服従させることもないのである。

 こんな東洋医学理論を知らなくても、普通に考えれば、

人間は、怒っても言うことを聞いてくれない

ということくらいわかりそうなものである。

 いずれにしても、医者が自称正義の味方になり、患者を悪者扱いして怒ってしまいがちなのは、

現代医学の悪いところである。

 

 

9 ストレスを与える医者

 

(前略)

  また、一般的に患者は「なぜ私だけが」と、病気になった「原因」を探そうとしがちだ。

原因を特定できたからといって治るわけではないのに、知りたがるのである。

 気持ちはわからなくもないが、

答えの出ないこと、答えが出ても解決につながらないことを

くよくよ考え続けるのは、体によくない

 外科医をしていた時は、こういう患者の心の問題は看護師に任せていた。

患者に対しては、話を聞き、睡眠薬を処方する。

それで不足ならば精神安定剤の処方箋にサインをするだけだった。

私が心の問題にそれなりに対処できるようになったのは、東洋医学を知ってからだ。

 でも、長く臨床をしていると、どんなにいい漢方薬を飲むよりも、

そばにいる人が患者の不安、不満を聞いてあげるのが効くように思う。

 漢方薬も愛情には及ばないのである。

 

 

第4章 患者と医者の違い

 

2 期待し過ぎる患者

 

「病院に行けば、何かしてくれる」と期待する患者が多い。

でも、「何もしない」という治療法もあることを知っておいてほしい。

(中略)

  何もしないのは「無作為」なのではなく、一つの「治療法」である

休ませるつまり自分の力で治るのを待ってやるのだ。

 たとえば骨折の治療もそうだ。よい場所で固定したら、あとは動かさない。

それだけで、自分の力でくっついてくれる。胃腸の炎症も、絶食が治療になる。

消化管の手術後などは、浮腫(むくみ)や炎症が治まるまで何も食べず、

消化管を動かさないほうが治りが早い。

 経験的には精神も同じだと思う。休ませると自分の力で治る。自己治癒力があるのだ。

 自傷他害(自殺をくわだてたり他人を傷つけたりすること)の恐れのある患者なら、

安定剤を使用し、少しゆったりして寝かせる。

そうして時間が経つと、少しずつ回復していく。

 必要以上の投薬をしなくても、少し時間をかせぐだけで、

心の傷が皮膚の傷のように治る。そんな例をたくさん見てきた。

当たり前だが睡眠薬にも安定剤にも心の傷の薬は入っていない。

 医者は「何もできない」「何もしないほうがいい」と、

勇気をもって患者に伝えるようにしたいものだ。

 時間がかかっても、自己治癒力で治すほうがきれいに治ることが本当に多いのである。

 

 

3 患者は心で見聞きする

 

(前略)

 私の親父は絵描きだ。よく絵を描いているのを子どものころから側で見ていたが、

どうして、これが、この絵になるのかと不思議に思ったことが何度もある。

同じ風景や静物を描いても人によってまったく違う色や形になる。

これは、絵を描く技法がほぼ同じ場合でもそうだ。

絵は写真のように物事を客観的に写すのではなく、

心の眼で観たものを手で図にするのだそうだ。

 親父と一緒に展覧会に行った時、「いい絵とはどんなもの?」と聞いたことがある。

すると、「どれだけ自分の感じた強弱が表されているかで決まる」と言っていた。

 たとえば、一時間前の風景を描けと言われても、写真のように正確には描けない。

「興味があったこと」「意外なこと」など、印象に残ったものは描けるが、

それ以外は記憶にないのが普通だ。

 逆に、自分で撮った写真を見た時、

どうして見たように撮れなかったのかと不思議に思うことが多い。

「ここがもっと大きいはず。ここは明るくはっきり見えていたのに」

などと思ってしまう。

 人は心で観ている。興味の有無が見え方の大小や明暗に影響するのだ。

また、悲しい心で観るのと、うきうきした気持ちで観るのとでは、同じ風景が違って見える。

 耳も同じだ。心で聴いている。心が反応したところが記憶の中心に残る。

写真で撮ったような絵が描けないのと同じように、

録音したような内容が頭に残ることはほとんどない。

まして時間が経てば、記憶が事実とまったく違うものになることも多い。

 患者も同じである。

 

 

6 医者の「知識」の正体

 

(前略)

 まあ、私はとくに浅学なのだろうが、それでも

「医者は特別な知識を持っている」という信仰は、やめたほうがいい。

買いかぶらず、

インターネットで調べればわかる程度の知識を持っているだけ」と考えたほうが、

お互い幸せである。

 医者は、特別な知識を持っているのではなく、特殊な世界にいるだけだ。

 

 

10 善魔

 

 高校生のころ、遠藤周作さんのエッセイ『無明のなかの光』で、

「善魔」という表現を知った。

調べると、劇作家の岸田國士さんが『善魔』という小説を書いているし、

映画化もされている。

 ここでいう善魔とは、

自分が正しいと思い込んで、善意でむりやり何かをすすめるといった人だ。

なにしろ善意なので、断るのは大変である。

正しいと信じ切っているので、へたに断ると悪として見られる。

どうしてわかってくれないのかと責められることもある。

 臨床の現場にも善魔が横行しており、しばしば問題が起こる。

 

 

第5章 東洋医学の感じ方

 

4 黄金比とヒーリングアート

 

(前略)

 もともと人には、美しいと感じる「ものさし」が二つ存在すると思う。

一つは「本能のものさし」。

もう一つは神様からもらった「黄金比」だ。

 一つ目の「本能のものさし」は、種の繁栄のためのものということで説明がつく。

鳥なら、羽がほかより目立つ雄が雌を獲得して繁殖できる。

人間も、顔に左右対称性があったり、健康的な体つきをしていたりすると、

異性は美を感じ、そこから恋が始まったりする。

 もう一つのものさしである「黄金比」は、われわれの頭では説明できない。

なぜ一対一・六一八をもっとも美しいと思い、人種、時代にかかわらず惹かれてしまうのか。

黄金比は、パルテノン神殿の屋根や名刺の縦横比など人がつくったものだけでなく、

巻貝の渦が小さくなる比や植物の葉の並び方など自然物にも現れているとよく言われる。

だが、その説明はつかない。

 黄金比というわけではないものの、

病気にも、美しい治り方と、美しくない治り方とがある。

 言葉では全部伝えきれないが、薬を最小限に、

しかも最適のタイミングだけ患者自身の免疫力を賦活させながら回復させる

とでも表現できるだろうか。

風邪でも、リウマチでも、がんでも、あらゆる病気に、これが当てはまる。

現代医学でも東洋医学でも、その美しさは同じだ。

 美しい治り方をすると、再発しにくく、患者の負担も少ない。

かつ最短で健康になる。

 美しくない治り方とは、どんなものか。

 たとえば、治ったことは治ったが、

途中のいいタイミングで解熱剤を使わなかったために、発熱によって神経の影響が出たとか、

逆に解熱剤を長く使いすぎて胃炎などの副作用が出てしまったとかいう例があげられる。

 結果は「治癒」で同じでも、治療の過程が違うと、患者に負担がかからない、

美しい治療が実現する。

 医者になりたてのころは、これがわからなかった。

研修医のころ、オーベン(指導医)が、「きれいに治った」とたまに言っているのを聞いて、

同じ「治る」なのに何が違うのだろうと思った。

何十年も診ていると、それがだんだんわかってくるのである。

 

 

第6章 「言葉にできる感覚」「言葉にできない感覚」

 

1 外科は自転車、内科は自動車

 

(前略)

世の中には、自転車の乗り方のように、絶対に「文字化、図式化できない知識」と、

自動車の運転のように、「文字化、図式化できる知識」の二種類の知識がある。

学校の教科書から学べるのは「文字化できる」知識である。

 

 

2 「暗黙知」と「形式知」

 

 「暗黙知」「形式知」という概念がある。

医者で社会学者でもあるマイケル・ポランニーが提唱した。

前項の自転車の乗り方が「暗黙知」自動車の運転方法が「形式知」

だと言えばわかりやすいだろう。

 世の中には、言葉では表現されない暗黙知がものごとの背後にあり、

それは言葉で表現できる形式知とともに、

日常的な学習だけでなく、社会全体の変化に大きな影響を与えているということだ。

 たとえば、会社の飲み会でとくに仕事について話さなくても、

飲み会がまったくない会社より、定期的に行われる会社のほうが業績がいいという。

暗黙知の交換が飲み会で行われているのだそうだ。なんとなく納得させられる。

 ポランニーは「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる

とも言っている。それが、日常的な学習に大きな影響を与えているのだという。

 

 

第7章 症状になる前に感じる

 

4 生活の変化で治った経験

 

(前略)

 ランニングは疲れればすぐ歩いてしまうが、

自転車は、こぎ続けないと倒れるので、足を止めにくい。

また、自転車は無意識にバランスをとる必要があるので、集中しやすい。

足を動かすという単純作業を二十〜三十分も続けると、軽い瞑想状態になってくる

脳が坐禅をしている状態に近くなるのだ。

 ただ歩くだけでもいい。歩行禅という行があるくらいだ。

坐ってするのが坐禅。立ってするのが立禅である。

イヤホンを外して、自然の風の音を耳で感じながら歩いてみてはどうだろう。

 運動のし始めは、ただきついと感じるものの、そのうちきつさがなくなり、

ただ体を動かしているだけ」になってくる。それが瞑想状態に近いのだ。

 ただし注意がある。運動しながら音楽を聴いたり、映像を見たりしないことだ。

よく、スポーツジムでバイクマシンに取りつけられた液晶で映画を見ながら

自転車をこいでいる人を見かけるが、それでは脳が瞑想状態に入らないそうだ。

 心の健康のために体を動かしてみてはどうだろう。

 

 

第8章 体のつぶやき

 

4 「快楽」と「快適」の違い

 

 自分の計測器でものごとを選ぶ時に、もう一つ大切な判断の法則がある。

 それは「快適」の原則だ。

仕事選び、異性選び、がん患者の治療方法の選択に至るまですべてに当てはまる。

「快適」とは必ずしも安楽ではない。

「快適」とは、たとえば、きつい仕事で肉体的に苦しい状態だが、

やりがいや達成感があり、同じ仕事を続けたくなるような状態だ。

肉体的、精神的に苦しくても、

高い次元の目的に向かっていると、幸せであり、幸せが長続きする。

「快楽」とは、その人が心地いい状態をつくる点では「快適」と同じだが、

目的が本能的な欲求を満たすことにある。

たとえば食欲や性欲が満たされた時、きれいな服を着た時に感じる満足だ。

ただし、快楽は自分を苦しくする。

なぜなら、たとえばワイン通がおいしいワインを飲んだら、

その時は至福の時間をすごせるが、少したつと、

もっといいワインを試したくなるからである。

つまり、快楽には限りがない。また、快楽は感覚をマヒさせる。

極上のワインを知った人は、

たまたま飲んだ普通のワインで不快を味わうことになってしまうだろう。

 「快適」を目ざして選択をくり返す人と、「快楽」を目ざして選択をくり返す人がいる。

「快楽」を満たすことを最終目標にする人は、現状をいつも否定し、

より多くの快楽を求め、満足感がないように思われる。

「快楽」の先には、必ず不満が存在する。

 

 

6 「体調がいい」感じを忘れない

 

(前略)

その「感じること」の先に、それぞれに合った健康法や、ひいては生き方がある。

それを見つけてほしいと切に願っている。

 

 

  あとがき

 

やみくもにやっている「カラダにいいこと」をやめてみる。

何度も書くが、あなたは変化し続けている。春になれば花粉症になる。

初夏になればそれが治まる。冬になれば体重が増える。夏になればやせる。

少し長めの時間単位で考えると、誰でも歳をとって変わっていく。

同じ「カラダにいいこと」が、ずっといいはずがない。

合う合わないは、やめてみればはっきりする。

東洋医学がすべてではないが、

黄帝内経』には季節に沿って生活のスタイルを変えろと書かれている。

 暑いのに、みながそうだから、流行だからといって厚着をすることはない。

Tシャツになって涼しくなろう。寒くなったら着込めばいい。

暑い、寒いの感覚を大切にしてほしい。

そうしてバランスを取りながら季節を重ね、老化しながら

「避けられない病気」を受け流して、死ぬまで生き続ければいい。

 『易経』は、『黄帝内経』と同時代に書かれた。「易」とは変わること。

世の中には、変わる性質を持つ「易」と、変わらない性質の「不易」があると説く。

季節の運行、昼夜の流れ、老化などは、変わらない「不易」のグループ。

体調をはじめ、変化し続けるものは「易」のグループである。

変わっていく易の体を季節や天候に合わせながら生活することが、健康を保つ秘訣だ。

 そこには、若返り、不死といった、不自然な考え方はない。

人は全員、歳をとり続け、白髪になり歯が抜け、体が動かしにくくなり死んでいく。

そんな体の変化を潔く認めてしまうのだ。

認めるというか、そんなものだと「諦める」のだ。

 ちなみに、「諦」は「あきらめる」とも読むが、「悟り」という意味もある。

いつかはみんな、うまくいけば老いて、病気になったりして死んでいく。

そう変化することを、認めて、諦めるわけだ。

現代医学では敗北と考えられている死さえも、

人の変化の美しく認めようというのがその当時の考え方だ。

 そんな、病や死さえも気にしない「諦め」の感覚と、

百歳オーバーの人がよく口にする長生きの秘訣、

何事も気にしない」「今日の悩みを明日に持ち越さない

とは、驚くほど一致する。そこには「サプリメント」や「体操」は出てこない。

 いかに体の感覚が鋭くなり、不調が早期にわかるようになったとしても、

残念ながら、いつかは人は死ぬ。

病気がわからなかったり、あるいは重くなってから発見されることもある。

でも、それを含め受け入れて、

「何事も気にしない」「今日の悩みを明日に持ち越さない」、

そんな態度が究極の長生きの秘訣であり、心地よく生きる方法ではないだろうか。

 

 

 

ゴルフでは、

 

「善魔」ならぬ「教え魔」

 

がいますね(笑)。

 

 

 

「自然治癒力」ならぬ「本性」で

 

「美しく」成長する

 

というのも

 

あるんでしょうね。

 

 
 

 

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    は、

 

「誰もが気軽にゴルフを楽しめるように」


真心を込めて、サポートさせていただきます。