無意識の整え方 前野隆司 山田博 稲葉俊郎 その4 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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前回に引き続き、

 

 

 

をご紹介させて頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

前野 (前略) 人間はそもそも森からやってきたんでしょうか?

山田 いろいろな説があるようですが、

 森に住んでいた哺乳類が 人類のルーツになっているようです。

前野 類人猿は森に住んでいますね。森の人、オランウータンももちろん森だ。
山田 そういう諸説は研究されていますが、
 実感としては間違いなく森から来たんだろうと思っています。

前野 実感として、ですか。

山田 はい。森にいると、なんとも懐かしい気持ちがするからです。

前野 たしかに気持ちいい。昨夜、他の参加者の方がいっていた

 「すっぽり感」という言葉が、すごくしっくりきました。

 人に話すと「マイナスイオンですか?」なんて一言で済まされてしまうんですが、

 もっと深い心地よさを感じるんです。

山田 この感覚は、たぶんまだうまく言語化されていないし、

 誰からも教えられたことのないものだと思います。

 でも不思議なくらい、誰でもすぐ感じることができるんですよね。

 昔から受けつがれてきたDNAなのかわかりませんが、

 人間が持っているセンサーの深いところで感じ取っているもののような気がします。

 

山田 (前略)森をはだしで歩くと、真正面だけを見る姿勢にならないんです。

 前を向いていても、自然に全体を見渡すワイドアングルビジョンになります。

前野 足元も含めた全体を俯瞰しながら歩くかたちになるんですね。

山田 はい。おそらく昔の人たちはこんなふうに歩いていたんでしょう。

前野 森にはだしで入るだけで、普段使っていない足の裏の触覚、視覚が開かれる。

 いろいろな感覚が研ぎ澄まされるのを実感できました。

山田 これはたぶん自然なことなんです。だから、特別な指導なんて受けなくても、

 誰でも森にいるだけで、そうなるんだと思います。

 

山田 森に入って感覚を開く。そのときに「ゆっくり」も大事だなと思うんです。

前野 ゆっくりですか。

山田 ええ。例えばこの話を聴いて「なるほど」と思って、

 自分でやってみようと都会から森にやってきた大半の人は、

 「早く」感覚を開こうとするんですよ。

 すぐに結果を出そうとしちゃう。

 でも、そうすると逆に感覚は開きにくくなるようです。

 何度かやってみて、気づいたことです。

(中略)

山田 (前略)

 そこで、ゆっくり歩くゆっくり話すゆっくり食べるゆっくり呼吸することを取り入れました。

 すると、結果的にみなさん早く効果が出るようになったんです。

前野 ゆっくりが早いんですね。現代人が間違えやすいポイントかもしれません。

山田 「急がばまわれ」という言葉は、誰でも知っているはずなんですけどね。

 でも今の世の中は早く結果を出したほうが勝ちというルールです。

 その社会で20年、30年と生きていれば、それがデフォルトになってしまう。

 そこから抜け出すのは大変なことだと思うんです。ある種、怖いというか。

 

前野 改めて考えてみたんですが、どうして「感覚を開く」といいんでしょう。

 むしろ、スピードの速い世界に適応したほうが、会社や社会で成功できるはずです。

山田 ええ。行動も判断も速ければ速いほど、きっと出世できますね。

前野 でも「それでいいじゃん」とはならないですよね。ぼくもそう思うんです。

 どうしてなんでしょう。

山田 うーん。直接的な答えではないかもしれませんが、この活動を始める前に、

 もうひとつ別の違和感も覚えていたことを思い出しました。

 ちょっと大げさな言い方をすれば、世の中が「分断」されている気がしていたんです。

前野 分断ですか。

山田 競争する社会では、うちの会社とあの会社、うちの街とあの街、うちの家とあの家、

 この国とあの国とを絶えず比較します。

 そうして優越感を持ったり、負けないように努力しようと思ったりする。

 これがある種のモチベーションになって、世の中は発展し、よくなっていくと考える。

 ただ、その前提として「こっち」と「あっち」、「自分」と「他人」を分けてしまう。

 この分断が歪みを生んでいるんじゃないかという気がしていたんです。

前野 はい。

山田 この分断をどうしたらいいのかについて、ずっと考えてきました。

 それで、あるとき気づいたんです。

 「考える」という作業は、問題をシンプルにするために、複雑な物事をより分け、

 シンプルにして、分析していきますよね。そうすると、どんどん細分化していっちゃう。

 科学の世界が細かい専門分野に分かれていくのと同じです。

 ですから、分断について「考える」ということをすると、

 さらに分断することになるんじゃないかと思ったんです。どこまでも続いてしまう。

前野 ふうむ。

山田 じゃあ「考える」の反対は何だろう。

 それは「感じる」ことじゃないかと思いました。

 ですから、感じる力をもっと大きく、強くするために、感覚を開く。

 それがぼくなりの答えといえるかもしれません。

 

山田 だから持続性を高めるには、喜びが必要です。

 喜ぶ基準はみんなそれぞれ違います。非常に多様なものです。

 だから画一的には決められないし、ましてや、

 他人が喜んでいることを批判する必要なんてないでしょう。

前野 そうですね。

山田 でも分断されていると、他人の喜びを喜べなくなっちゃうんです。

前野 おお、そうか。

山田 勝ためには、相手が負けなくちゃいけないから、他人の喜びが妬ましくなる。

 これを解消するためには、相手を負かすか、精神的に優位に立とうとするしかない。

 成功しても、今度は妬まれる側になる。

 この連鎖が終わることはないんじゃないでしょうか。

 

前野 個別の木はそれぞれ勝手に最大化しようと戦ってるんじゃないですか?

 その結果、バランスがとれているのでは?

山田 そういうふうにも見えますね。でも調和のとれた森では、

 一定以上には大きくならないように調整がはたらきます。

 大きな木の葉っぱはみな日のあたるところにあるけれど、でも密集はせず、

 地面に近い小さな植物もある程度育つようなすき間をつくっています。

前野 一種類の植物に独占されてしまう森もあります。これは?

山田 そういう森は長続きせず、どこかの段階で滅びてしまいます。

 崩壊して、またゼロから森がつくられるんです。

 

山田 もうひとつ大事なことがあります。多くの人に森に関わって欲しいと思っていますが、

 全部わかっちゃいけない気もしているんです。

 理屈やメカニズムがわかると、意識的にコントロールしたいということにつながりやすいと思うんですよ。

前野 ああ。「分かる」という字は分断の分ですね。

山田 おお、そうですね。「わかろう」とする好奇心自体はいいことだと思うんです。

 でも理解のあとに「コントロールしたい」という欲望を人間は抱きやすい。

 そこは充分、気をつけるべきだと思っています。

 ぜんぶわかったつもりになると「この森をもっと効率よく再生しよう」とかいう考えが、出てくるじゃないですか。

前野 主体的に関わりたくなりますね。

山田 はい。100年かかるところを、20年で森を倍に成長させようとか。

前野 考えちゃいますね。

山田 考えること自体を否定はしませんが、でも大事な部分を失って、

 結局また効率よくやろうという方向に行くことには違和感があります。

 そこが非常に重要じゃないかと思っているんです。

前野 なるほど。でも思いついちゃったら、やりたくなりますね。

 この森のリトリートというプログラムは素晴らしいから、

 もっと大きな会社にして日本全国に広げられたらいいのに、ってぼくが思うのも同じですね。

山田 ははは(笑)。つい、ぼくもそう思っちゃいますね。スタッフとよく話すんです。

 自分たち人間がやれるのはせいぜい5%で、残りの95%は森がやってくれるからって。

 だから森を信じて、委ねることが大切。そうすると良いことが起こるんです。

前野 委ねるというのも、現代人が苦手な部分ですね。

 オレがやるんだと、意志の力で主体的に取り組もうとしちゃいます。

山田 そうですね。委ねること、手放すことは本当に難しい。

 そういえが委ねる手放すまかせるは似たような言葉ですね。

 共通点は自分だけでやろうとしないことでしょうか。

前野 うん、そうですね。

山田 たぶん自分だけでやろうとすると分断を生み出すんですよ。

 力を誇示したり、自分を主張したりすると、壁、境界線ができる。

 自分だけで立ち続けなくてはいけないくなる。共生から離れてしまう。

 

山田 ぼくが「考えずに、感じてください」というのは、たぶんそのことと同じじゃないかと思います。

 その場で考えて、わかろうとすると、意識のシャッターがまた閉じてしまう。

前野 おお、なるほど。

山田 (前略)

 実際、森では、結構多くの人がそうした不思議な感覚になるんですよ。

 ですから、感覚はただ受け止めることが大切です。あとでひも解かれるから。

前野 その場では受け止めるだけにしておく。ひも解くのも無意識にまかせる。

山田 ぼくらは不思議なこと、説明できないことが起こると、不安になるんだと思います。

 できるだけ合理的に解釈しようとするし、

 オカルトやスピリチュアルな現象といった言葉で説明するのも同じ心の働きだと思います。

 でも、今この瞬間も、ぼくらは説明できないことは、きっとバンバン起きている。

 でも、それに気づくと不安だし、悩んでも解決できなくて困ってしまうから、

 意識を閉ざしているんじゃないかと感じます。

前野 デザイン思考と似ていますね。イノベーション発想法として注目されている方法です。

 オブザベーション(観察)するとき、仮説を持ち過ぎず、感覚を鋭敏にして、

 ただ受け入れ続けていると、いい発想にたどり着くというんです。

山田 おー! 同じですね!

前野 ブレスト(ブレインストーミング)も、ロジックで良い悪いを判断せず、

 何でも受け入れていたほうが、いいアイデアにたどり着ける。

 基本的な精神は近いですね。

山田 評価や判断をしないで、ただそのままにしておくんですよね。

 ぼくが「森に行くと必要なものがわかる」というのは、そういうことなんです。

 正確にいうと、わかるというより、感じ取れる。意味はあとからついてきます。

 

前野 森に入ると五感が開く。

 これは脳にあるもの、無意識にあるものを出しやすくなるということですね。

 同時に、そこで浮かんだものに対して意味づけをしないで、ひとまず受け止めておく。

 それは無意識と意識とが開いている部分を閉じないようにすること

 簡単にイメージ化すると、内側と外側も開いてるといい。

山田 なるほど、そういう感じですね。

前野 普段は、内と外どちらに対しても、

 意識上にあることだけを道具に考えてしまっているのかもしれません。

 意識できることって少ないですから、内と外をつなぐ通路が細いんです。

 そうではなく、外もパカっと、内もパカっと開けるのがいい。なるほど。

山田 コーチングに似ていますね。

 コーチはできるだけ思いついたことを口にしたほうがいいんです。

 そうすると、たいてい役に立ちます。

前野 おっしゃってましたね。フィードバックすることになるとか。

山田 ええ。そういうとき、主題に直接関係なさそうに見えることほど、

 重要な手がかりになることが多いんです。

 脈絡はないんだけど、突然思いついちゃったということほど

 「それだ!」っていう展開になることが多い。

前野 へえ。

山田 きっと同じことなんでしょう。お互いの無意識にもともとそれはあった。

 そこに触れることができれば、響いてくる。理屈ではなかなか取り出せない。

前野 コーチングも感覚を開くことが大事そうですね。

山田 ブレストと同じで、流れに身をまかせていると自然にそうなると思います。

 「こちらに導こう」なんていう意志が入るのはダメです。

 シナリオを放り投げて、今起きていることに集中する。

 そうすると、結果的に良いところに到達します。

 膨大な知恵というか、無意識に関わる部分なのだろと思いますね。

 

 

 

大自然や自然な流れに

 

委ねる、手放す、まかせること

 

はやっぱり大切なんだろうな

 

と思いました。

 

自然の中でいろいろな体験をすること

 

も大切だろうな

 

とも思いました。

 

私も、開場時間を間違えたという流れから

 

子どもたちが意外と嫌がらなかったので、

(少しは嫌がってました(笑))

 

山に登ってから打球練習する

 

という試みをした時期がありました。

 

また、スプリングキャンプの際、ほぼ山頂から

 

自分の目標を大声で叫ぶ

 

というような体験をしてもらったこともありました(笑)。

 

今後も

 

心(無意識)に残る、響くプログラム

 

 

素敵なゴルファーを育成したいな

 

と思ったりもしました。

 

 

 

 

 

稲葉 コミュニケーションって、常に相手に選択されていると思うんです。

 「この人ならこの話をしても大丈夫だ」とか「この人は絶対にバカにするからやめておこう」とか、

 そういうことをみんな無意識の中で探りあっているんですよ。

前野 ああ、無意識のコミュニケーションですね。

稲葉 はい。微細な表情、皮膚感覚で「この人は話してもOKだ」と無意識に判断できると話してくれる。

 しかも、聞いているときの反応もすぐ察知されて「冗談だけどね」って打ち切られてしまうこともあります。

前野 ああ、わかります。

稲葉 ぼくは、人間が想像できるものはすべてこの世界に存在する。

 もしくは存在しても不思議ではない、という自由なとらえ方をしています。

 そういう自分のスタンスが、相手に非言語的な交流として伝わっているのだと思いますが、

 珍しい不思議な話をよく話してもらえるんです。光栄なことですね。

前野 稲葉さんは無意識のコミュニケーションの回路が「開いている」感じなんですかね。

 でも我々は小学校以来、西洋的な教育を受け、

 科学や理論で説明できないものは存在しないかもしれないということを学びますよね。

 そういう教育のある意味最高峰にまで行ったのに、それに毒されずにいるわけですね。

稲葉 どうなんでしょうね(笑)。ただ西洋的な科学の世界観は、

 あるルールの枠内でのゲームのようなものとして、一歩引いたスタンスでとらえています。

 科学はいろいろと便利なものも生み出した、極めて重要な思考法のひとつです。

 状況によっては科学のような輪郭が明快な方法論も必要でしょう。

 ただ、それは世界の一部でしかありません。さらに先のことを見据えたら

 「科学的に正しい間違いか」という一部の世界観だけで、

 これからの時代とシンクロして生きていくのは難しいでしょう。

 この世界はもっと多様な世界が折り重なっている、という点を押さえていないと、

 狭い水槽に入れられた生きづらい人生になると思っています。

前野 2歳でそこまで考えたわけじゃないですよね。

稲葉 もちろん(笑)。ただ、言語化できないだけですから、正確なところは自分にもわかりませんよね。

 高校生くらいのときに医師になろうと決めて、

 それからはひとつの方法論としての論理世界、言語世界にチャレンジしていこう、

 という決意のようなものはありました。

 

稲葉 はい。古事記や万葉集や風姿花伝を読んでいて、突然わかったんです。

 日本においては、美が医療の役割を果たしていたんだと。

前野 え?美ですか。

稲葉 例えば古事記には領土や女性について、さまざまな葛藤が起きるシーンが描かれています。

 西洋の物語では、だいたい登場人物のどちらかがヒーローになり、相手を倒したり、殺したりして解決するんです。

 ところが古事記や日本の古典では、かなしみや死などの受け入れがたいものをなんとか受け入れようとするとき、

 和歌の交換がおこなわれたり、舞いがはじまります。葛藤がいきなり美や芸術に昇華されてしまうんです。

前野 ほお。

稲葉 日本の神髄はここにあるんだと思いました。

 「医学」という学問の次元で考えれば、病気を治した、治せなかったという話で終わってしまします。

 そういう二元論の構図じゃなくて、

 日本では、そういうものを「芸術」とか「」という美的な世界へと高めていたんじゃないかと思うのです。

前野 「道」というのは、東洋の芸術のことですか?

稲葉 そうです。茶道、華道、武道、香道、書道……、

 他にも神楽、能楽、狂言、歌舞伎、雅楽、人形浄瑠璃……といった世界には、

 それぞれ決まった「型」や「呼吸法」といった身体的な知恵がありますよね。

 また、心を整える技法もあって、これらの道を学ぶことで、

 心身一如は当たり前のように身につくわけです。

 心を整えることが体を整えることであり、体を整えることが心を整えることなるわけです。

前野 ふうむ。

稲葉 しかも、道では、必ず人格も問われます。

 西洋の感覚では、スポーツ選手は、その競技での技術だけが重要です。

 人格や素行に問題はあっても、技術さえ巧ければ名選手です。

 人格と肉体機能の優秀さは別問題なわけです。

 ただ、日本の伝統では、その道の達人や名人は人格者になっていくのです。

 人として、存在として、「道」の中で完成されていく「道」なわけですから、

 人格も体も心もすべて同じものの違う側面で、

 その全体性の発達こそが重要なことだとされるんです。薬物中毒者なんていない(笑)。

 これは、心と体を整えていくことが一体であり、同時に人格の発達であるという考え方から来るものです。

 しかも、さらに同時に美の世界として芸術でもある。

 お花はわかりやすいですが、茶道も、武道でさえも究極は美の次元に高めています。

 このように日本では、人間の心と体についての知恵が、すべて芸術に高められている。

 だから、日本の医療の歴史を調べたときにそれが全然出てこないんだと思ったんです。

 

前野 おもしろい。中医学が入ったあとも、そのやり方は続いていますね。

稲葉 そうです。世阿弥は室町時代に、河原者として低く見られていた芸能の世界を、総合芸術にまで高めています。

 シェークスピアより200年くらい前の人です。じつは今、能を習っているんですよ。

 能楽に秘められた心と体の知恵を知りたいと切実に思いましたので。

 学びは、頭ではなく体でするものだと思っています。

 世阿弥が圧縮保存したものを現代人がうまく解凍できていないから、

 その深い意味を適切な形で解読できていないだけなんだと考えています。

前野 それを解凍する作業をしようということですか。

稲葉 ええ。これが未来の医療につながっていて、

 日本が世界に発信できる普遍的でグローバルな医療になると思っています。

 なぜなら、体や心は共通ですから。

(中略)

稲葉 科学技術がこれだけ発達しても忘れなかったのは、やはり、

 みんなが深いところでは大切に思ってきたからなのでしょう。

 その空間に花が一輪あるだけで場が整い、心が整い、体が整う、という発想は、

 最先端の心理療法にも勝ると思います。

 ここにも無意識や潜在意識、深層意識への目配りが入っている。

 これは最先端の医療や養生法ともいえると思うのです。

 

稲葉 結局、人間というのは、考え方によって人生観、世界観がつくられ、

 現実やリアリティがつくられていくんだと考えています。

 西洋医学は、身体を「戦いの場」ととらえます。

 病気という侵略者が、境界線を越えてやってきたから、戦う。

 癌細胞は自分の細胞が寝返ったものだから、同じように倒して、追放せよという発想です。

前野 そうですね。

稲葉 非西洋医学にも、東洋医学だけではなくいろいろなものがあります。

 それらを参照しながら、医療の本質を考えていくと、「病気」という概念は必ずしも必要ないということがわかります。

 人の体はそもそも愛と調和の場です。愛と調和のメタファーです。

 でも、ときどき体も心もバランスが崩れて、不調和や不均衡になることがある。

 西洋医学では、そういう不均衡な状態を「病気」として名前を決めて、

 そういう悪い相手といかに戦うという臨戦態勢に入ります。

 そうではなく、体や心を全体論的に見て、

 「調和して完全だった均衡が崩れたのだから、調和の状態に戻っていくにはどうすればいいだろうか」

 という発想をすればいいわけです。

 すると「自分がいちばん調和している状態とは何か」をまず考えて、

 そこを探っていくという発想になっていきます。

 病名とか病気とか、わざわざ分類していく必要はそもそもないんです。

前野 西洋医学が必要ないということではないですよね。稲葉さんのご専門である、

 心臓はカテーテル手術したほうが良かったりするケースもあるでしょう。

稲葉 はい。そのほうがいいケースも、もちろんたくさんあります。

 ただ、現在は西洋医学的な世界観があまりにもその他の考えを凌駕してしまって、

 人の体を常に戦場のように扱っていると思うんです。

 宮本武蔵や山岡鉄舟のような武道の達人が

 「戦っている以上、永遠に敵が現れる」という武術や争いの本質に気づいたように、

 無敵とは敵がいないことなんですね。敵なんて、最初からいないのです。

 自分がつくり出したわけですから。

 一度そのレーンに乗り出すと、永久に戦いの螺旋から降りられなくなるわけです。

 井上雄彦さんの『バガボンド』のテーマもこういうことではないかと思っています。

(中略)

稲葉 はい。体をどうとらえるのかということです。

 それによって病気はまったく違うものになる。病気が治るか治らないかは本質ではないのです。

 全体としての調和こそが、本質なのです。

 例えば、人間がひとつの細胞しか持たなかったら、病気は即座に死を意味します。

 でも、60兆個の多細胞になっているので、例えば、100万個の細胞が病気になっても、

 全部を犠牲にせず、その間に全体が新たな調和状態を獲得すれば、生き残ることが可能です。

 これは一例ですが、こういう違った発想でとらえると

 「全体を生かすために一部が犠牲になってるんじゃないか」と考えることができるんです。

 癌も同じです。「わたし」という存在全体を殺さないために、

 癌化した一部の細胞が重量なことを教えようとしているととらえることができます。

 その知らせにちゃんと気づいて、また、いちばんいい調和の状態に戻れば、

 その個体は死なずに済む。これって生命的な戦略としてはすごく有効だと思うんです。

(中略)

稲葉 「治る」という言葉の定義次第ですよね。

 バランスが崩れたとき、以前とまったく同じ状態に戻る、というよりも、

 別の新しい平衡状態へと移行する

 そっちのほうが「治る」プロセスの実態に近いと思います。

 実際、宇宙はそういうふうにできているし、自然治癒はそいういものです。

 そのことを思い出して、それぞれが自分自身の自然へと回帰するお手伝いが、

 医者の仕事だと思うんです。

 

やっぱり「真・善・美」で考えると、真と善は必ず対立します。

これが正しい、これが善いと、お互いが真と善と主張しあって譲らず、

対立が戦争を起こしたりするわけです。

だからこそ、日本人は美で調和している

人類には美と芸術が絶対必要なんだというのは、そのためでもあります。

 

稲葉 東大の学生時代に倫理学を学んだ竹内整一先生のテーマが「あわい」でした。

 竹内先生は、和辻哲郎先生の流れにある東大倫理学講座の教授でした。

 先ほど前野先生もおっしゃってましたが、

 哲学や倫理学で一生食べていける人はすごいじゃないですか。

 現代にもこんな人がいるんだと思って

 「先生はどうしてこの時代に倫理学をやろうと思われたんですか?」

 と聞いたことがあるんです。そしたら一言、

 「『みずから』と『おのずから』のあわいだよ」

 とおっしゃったんです。

 その言葉に、ぼくは稲妻に打たれたような衝撃を受けたんです。

前野 みすから、と、おのずからですけ。

稲葉 ええ。「みずから」と「おのずから」は、どちらも「自分」の「自」に「ら」と送り仮名を振ります。

 昔の人は、あるときはルビを「みすから」と振り、ある時は「おのずから」とルビを振った。

 この両者が合わさった言葉なんです。

前野 ほお。(メモをとる)

稲葉 この仕事を「みずから」決定したというのは個人の意志や思考です。

 同時に「おのずから」は運命的な働きですね。

 自然や宇宙的な力で「おのずから」この仕事を選ぶことになったんだという意味になる。

 「みずから」と「おのずから」は同じ字なのに、その両方の意味合いを持つ、

 あわいの言葉なんです。

 竹内先生は「みずから」的な意志の力と、「おのずから」という自然そのものの力の、

 その双方によって倫理学を選択したとおっしゃったんだと思います。

前野 なるほど。すごい。

稲葉 これは日本人の美意識です。

 

前野 稲葉さんは「無意識とは自然である」とおっしゃいましたね。

稲葉 ええ。ぼくにとっての無意識、深層意識はまさに自然そのもので「おのずから」あるものです。

 自然は人間をつくり出し、その人間が中枢神経を持ち、

 そこから「わたし」という意識が生まれ、さまざまな世界観を形づくっている。

 そういう流れを思うと、自然という遥かな命の流れがある中で、

 特定の世界観なんてものは本当に部分に過ぎないなあと感じます。

 無意識は、それ以外の膨大な世界ですよね。それにつながることさえ忘れなければ、

 登山道はどこから登っても山頂に通じると思っています。

 

稲葉 ぼくは、芸術とは子どもに還ることだと思っているんです。

 原始的な生命である「子ども性」というものをどういうふうに思い出し、表現するかという世界なんです。

 ですから、優れた芸術や美しいものを見ると、子どもに戻る。

前野 大人は、世界を言葉や世界観で分離し、解釈していくけど、子どもは、いちばん最初のかたち、

 根源的で大きなもののまま扱っているといえますね。

稲葉 そうですね。まさに未分化な、宇宙と自然、すべてがつながった世界に生きていると思います。

前野 たしかに絵画の約束事みたいなものを知らない子どもは、自由な表現をしますね。

稲葉 そうですよね。芸術は、そこに戻るための方法なんだと思うんです。

前野 いいですね。優れた芸術に触れるとそこに戻れる。他にもありますか?

稲葉 やっぱり自然がつくり出したものにはその根源があると思います。

 自然に触れる機会をつくるといいんじゃないでしょうか。

 海とか山とか川とか、自然の中に入って、一体につながる。

前野 自然と一体といえば、稲葉さんは山に登られるそうですね。

稲葉 ええ。やっぱり体がおのずから求めているという感覚があります。

 人体も自然の一部ですから、意識世界の人工空間に居続けると、

 体や心などの無意識世界は不具合を起こしやすいのでしょう。

(中略)

前野 無意識を整える方法、他にも何かありますか?

稲葉 人間が介したものなら、やはり芸術だと思います。

前野 いわゆる美術品に限らず、俳句でもいい?

稲葉 はい。音楽、踊りやダンスでもいいと思います。

 芸術に触れることで感性の世界を思い出す。

 それが自然とつながるきっかけになると思いますね。

 

 

 

人の体はそもそも愛と調和の場

自分がいちばん調和している状態とは何か

別の新しい平衡状態へと移行する

 

というお話は、

 

ニュートラルゴルフ

ニュートラルスイング

 

という考え方に通じるな

 

と思いました。

 

愛と調和っていいですね(笑)。

 

 

 

いろいろと難しいこともありますが、

 

Let It Be / ビートルズ

Let It Go / アナと雪の女王

自然法爾(じねんほうに) / 親鸞

これでいいのだ / バカボンのパパ

そのままでいいがな / 相田みつを

みんなほんもの / 相田みつを

あるがままに / ゴルフ規則

 

へとつなげていきたいものですウシシ

 

 

 

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