弟が、食卓で You Tube の画像を流して止めようとしない。


彼は政治批判をするのが趣味なので、政治家の演説を私たちに見せようとするのだ。



「見たくないから消して」


と言ってもきかないので、腹がたった私は、PCのブラウザを強制終了した。


それ以上は、弟は続行しようとは思わなかったみたいで終わった。


                                      (食卓でするな!)




問題を解決しようとする思考は、問題をさらに強化する、ということが理解できない弟なので


それは仕方ないと思う。 好きなだけ、人間ドラマをするのも勝手だ。彼にはまだ、それが必要なのだろう。


でも、私にまで強要してくるとなると、ハッキリとNOと言う。


弟は強引なタイプでは無いので大丈夫だが、これが、強引なタイプだと、一緒にはいられないだろう。




人類が、今までしてきた誤解の中で大きなもの……


世界の困っている人を助けよう


とするところだと思う。



これは、とても微妙な問題なのだ。



意識の空間的な認識が上がると


自分のまわり、360度しか、リアルは無いと分かる。


自分は球の中心にいて、その球にうつるスクリーンだけが本物ってこと。



360度カメラ

     (ちょっと違うけど、キリンを上から見た図)



なのに、TVや新聞やネットなどの


ヘンな窓口をもうけたとたん


「世界」という仮想現実が出来あがり、問題も発生する。 *世界というのは、人間の集合意識



リアルにせしめてるのは“意識”なので、問題を認知したとたん


それは本当になる。




なので、問題を探せば探すほど、問題は現れ


スクリーンの中に、集合意識の道具(TVなど)を入れれば入れるほど


混乱は増える。




こういった事実が分からないと


世界の問題を解決しなければ、と思うようになる。



そうしないと、その問題が自分を脅かすような不安を感じたり


問題を受けているだろう人に、罪悪感を持ったり、するからだ。



本当は、↑のように感じる、自分の中の心理を振り返るべきだが、それは、なかなか出来ない。




では、世界の問題は、放置してよいのか!?


ということになってくる。 


もちろん、国際レベルでは、放置はしてはならない。



が!


自分が国連の職員や首相・大臣でない限り


自分が出ていって解決しようと思う必要は無い。







では、私たちは実際にどうすればいいのか?



孔子の話を引用しよう。    (加藤周一のエッセイから引用)



孔子は重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。


すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、一頭だけ助けたってしようがないのではないかという。


孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。


それは第一歩だ。


第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放すること。


  (中略)


たくさん苦しんでいるのだから一頭ぐらい助けてもしようがないという考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが前提にある。


なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。


牛が苦しんでいるのは耐えがたいから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかというと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからだ。

だから出発点に帰る。


やはり一頭の牛を助けることが先決なのだ。




つまり、目の前の問題だけを解決すればいいのだ。


目の前の牛は、結局、自分。 自分のスクリーンに投影された内部。


なぜ牛が苦しんでいるか? と書いてある。


これが本質だと思う。 なぜ、自分は苦しんでいるのか?


牛は酷使されている。つまり


「大切にされていない気がする」 ひいては 「自分が自分を大切にしていないから」 


などと、分かれば、牛を看護しながら愛を与えてやる、ことを、自分にもしなければならない。



目の前のことに専念する。



後は、夢にエネルギーをそそげばいい


自然に即した町を作りたいなら、理想の町づくりにエネルギーをそそげばいい。


音楽で人々の意識を高めたいなら、全く新しい音楽をつくればいい。




世界のどこかの問題を解決する必要は無い




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