「生まれ変わっても、また仕事をしよう…」

亡くなる前、最後の言葉だった

 

大学を卒業して初めて担当した取引先の社長

当時私は24歳、社長は54歳

独立したての産業機械設計会社だった

大手のメーカー出身の彼は数多くの実績を残し役員の誘いを断っての起業だった

 

半人前以下の若造が担当するには経験を積むのに良いとの判断で上司からの指示で仕事をすることになった

大学とインターンシップで当時ではまだ珍しい”マーケティング”を学んだ私へのお試し期間でもあった

 

しかし、”本物”のメジャー企業の最前線で活躍していた彼にとっては机上での経験しかない私への期待など全くなかったはずだ

それでも最初から常にすべての情報を私に対して真剣に提供してくれ真剣に相談してくれていた

 

この経験がなければ、その後の私が仕事で今の実績を得ることもなかったはずだ

文字通り「手とり足取り」実践で教えてくれたのだった

初めての経験が最初から”プロの実力”を見せつけられ、それを復習することで自然と身についていた

大学やインターンシップ先の企業では経験できない事ばかり

当時、起業したての社長にとっては私との仕事は”回り道”でしかなかったはずだ

 

仕事と同時に”夜の街”の経験もさせてくれた

入社したての私などは会社も売り上げより、この企業で経験を積むことに価値があると判断してほぼ専属のように日々通っていた

 

初めての海外出張のフィレンツェ(伊)もこの会社の仕事だった

この仕事のお陰で現在においてもイタリア国内に多くの人脈が残っている

 

初めてのドンペリの経験もこの社長だ

この社長と数十本の様々なドンペリを飲んだ

何かにつけお祝い、記念日にしてドンペリを空けた

起業したての社長の会社にはひとつひとつの成功を積み重ねていく歴史を二人で味わってきた

 

私の結婚披露宴では来賓の挨拶で両親以上に号泣してくれていた

彼の会社の取引先には私を息子だと勘違いする企業がほとんどだった

 

私が勤務先を退職した時も

「80歳を超えてようやく跡継ぎができた」

と手放しに喜んでくれていたが

私が独立するとわかっても何も言わず応援してくれたのだ

 

80歳を超えても夜の街は元気だった

階段などはいつも二段飛びという足腰だった

先月も、お気に入りのホステスさんとの同伴やアフターを付き合わされたぐらいだ

 

二年前に妻と再婚して挨拶に行った時も

最初の結婚式の時以上に号泣して妻をハグしてくれた(笑)

 

東京事務所を開設するときには彼の人脈で多くのクライアントも紹介してくれた

 

3月には彼の91歳の誕生日会を盛大に開いた

その時に外資系のメーカーに勤める彼のお孫さんが”跡継ぎ宣言”をするサプライズがあり、密かにその喜びを噛みしめていた

 

今月に入って入院したという一報が届き

「あまり長くはないかも…」

と家族から伝えられ仕事を地元に集中させてこちらで滞在していた

そして数日前に最後の最後まで普段と変わらない元気な口調で私に冗談を言っていた

 

 

それでも自らわかっていたのか亡くなる前

「生まれ変わっても、また仕事をしよう…」

病室を出る前にそう口にしたのだった

その時は彼特有の冗談だと受け止めて

「とりあえず100歳まではこのまま仕事しましょう」

と私は笑顔でそう応えていた

 

その翌日の早朝、静かに…と家族から連絡を受けた

 

通夜、葬儀と誰よりも号泣していた

20年前に父親が亡くなった時よりも取り乱した

 

家族より一緒にいる時間が長かった

社会人になって全ての経験は彼と一緒だった

 

この二日間何もできなかった

ほぼ抜け殻の状態だった

私の周囲はほとんどそれを理解してくれていた

 

スマホの着信履歴の半分は彼からの着信だ

今でもスマホにかかってきそうだ

 

私からもしっかり伝えたい

「生まれ変わっても、また一緒に仕事をしましょう…」