生き方 稲盛和夫 | ZAURUSのブログ

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苦しき世だからこそ、その苦は魂を磨くための試練だと考える必要がある。
お釈迦様は、悟りのきょうちに達する修行法の一つとして、「精進」することの大切さを説いています。精進とは、一生懸命働くこと、目前の仕事に脇目もふらず打ち込むことです。

人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

よい思いを描く人にはよい人生が開けてくる。悪い思いをもっていれば人生はうまくいかなくなる。

その人の心の持ち方や求めるものが、そのままその人の人生を現実に形づくっていくのであり、したがって事をなそうと思ったら、まずこうありたい、こうあるべきだと思うこと。それも誰よりも強く、身が焦げるほどの熱意をもって、そうありたいと願望することが何よりも大切になってきます。
構想を練る段階では楽観的に。具体的に計画に移すときは悲観的に。実行する段階では楽観的に行う。
運命というものは、私たちの生のうちに厳然として存在します。しかしそれは人間の力ではどうにも抗いがたい「宿命」なのではなく、心のありようによっていかようにも変えていけるものです。
可能性とはつまり「未来の能力」のこと。現在の能力で、できる、できないを判断してしまっては、新しいことや困難なことはいつまでたってもやり遂げられません。
「もうダメだ、無理だというのは、通過点にすぎない。すべての力を尽くして限界まで粘れば、絶対に成功するのだ」
遺伝子の潜在能力をオンにする、プラス思考や積極思考など前向きの精神状態や心の持ち方が大きく作用しているといいます。人間の頭で、これをしたい、こうあってほしいと考えられるようなことは、遺伝子レベルでみれば、たいてい可能なはんいにあるそうです。
安易に近道を選ばず、一歩一歩、1日1日を懸命、真剣、地道に積み重ねていく。夢を現実に変え、思いを成就させるのは、おういう非凡なる凡人なのです。

「人間として何が正しいのか」というきわめてシンプルなポイントに判断基準をおき、それに従って、正しいことを正しいままに貫いていこうと考えたのです。
「1日1日をど真剣に生きる」
偉大な仕事をなしうる知恵は、経験を積むことによってしか得られません。
おのれの才を「公」に向けて使うことを第一義とし、「私」のために使うのは第二義とする。
人の上に立つものは三つの要素を兼ね備えていることが望ましいが、もしそこに序列をつけるなら、1が人格、2が勇気、3が能力である。
心を高めるということは、生まれた時よりも少しでも美しい心になって死んでいくこと。
そのために6つの精進が必要
①誰にも負けない努力をする。
②謙虚にして驕らず。
③反省ある日々を送る。
④生きていることに感謝する。
⑤善行、利他行を積む。
⑥感性的な悩みをしない。してもしかたのない心配にとらわれない。そのためにも後悔をしないようなくらい、全身全霊を傾けて取り組む。
正剣を抜いた時には神が加勢してくれるが、邪剣を抜いた時は神はそっぽをむいている。
邪剣とは「濁った願望」のこと。自分のためだけに損得のソロバンを弾く私利私慾が混じった思いです。

他人から「してもらう」立場でいる人間は、足りないことばかりが目につき、不平不満ばかりを口にする。しかし、社会人になったら、「してあげる」側に立って、周囲に貢献していかなくてはならない。
地獄と極楽には同じような釜があり、そこには同じような美味しそうなうどんがぐつぐつと煮えている。ところが、そのうどんを食べるのが一苦労で、長さが1メートルほどの長い箸を使うしかないのです。
「動機善なりや、私心なかりしか」
隠れて悪いことをしても、神仏はすべてお見通しだからその報いは必ず受けなくてはならない。また人知れず善行を積んでいる人を神仏は見捨てたりしない。

人生にはそれを大本で統御している「見えざる手」がある。
一つは運命です。人はそれぞれ固有の運命をもってこの世に生まれ、それがどのようなものであるかを知ることがでいないまま、運命に導かれ、あるいは促されて人生を生きていく。
もう一つは「因果応報の法則」です。私たちの思ったこと、行ったことが種となって、そのとおりの現実をもたらすからです。心を磨き、高めることで高められた善き心というものが、善き人生をもたらす要因となるからに他なりません。
人生が運命どおりにいかないのは、因果律のもつ力がそこに働くからです。しかし一方で善行がかならずしもすぐに善果につながらないのは、そこに運命が干渉してくるからです。
因果応報の法則の方が運命よりも若干強い。そのためわたいたちは、持って生まれた運命でさえも因果応報の力を使うことで、変えていくことができるのです。
したがって、善きことを思い、善きことを行うことによって、運命の流れを善き方向に変えることができる。
いくら修行に努めようが、私たち凡夫はついに悟りに達することはできないだろう。しかしそうであろうと努めながら、ついにそうであることはできない。しかしそうであろうと努めること、それ自体
尊いのだということです。
戒めを十全には守れなくても、守ろうとする気持ち。守らなくてはいけないと思う気持ち。守れなかったことを真摯に自省、自戒する気持ち。そうした思いこそが大事であって、そのような心をもって毎日を生きていくことが、悟りに至らないまでも十分に心を磨くことになる。
人間の心は多重構造で、外から
①知性→後天的に身につけた知識や論理
②感性→五感や感情などの精神作用をつかさどる心
③本能→肉体を維持するための欲望など
④魂→真我が現世での経験や業をまとったもの
⑤真我→心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている。
真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。それは愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えている。あらかじめ心の中心に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。
魂とは、それが何度も生まれ変わる間に積み重ねてきた、善き思いも悪しき思いも、善き行いも悪しき行いもみんなひっくるめた、まさにわれわれ人間の「業」が含まれたもの。真我万人に共通したもので魂は人によって異なっている。
災難にあったら、落ち込むのではなくて喜ばなくてはいかんのです。災難によって、いままで魂についていた業が消えていくのです。それぐらいの災難で業が消えるのですから、稲盛さん、お祝いをしなくてはいけません」
心を磨くには理性と良心を使って感性や本能を抑え、それらをコントロールしていこうと努めることが大切だと考えています。
真我や魂から発する理性と良心に従って、確固とした倫理観や道徳観を、心にインプットしてしまう。すなわち「世のため人のために尽くす」という考え方、欲望のままに必要以上のものを求めたりむさぼったりしない「足るを知る」という生き方を、心に刻みつける。
一生懸命働くこと、感謝の心を忘れないこと、善き思い、正しい行いに努めること、素直な反省心でいつも自分を律すること、日々の暮らしの中で心を磨き、人格を高め続けること。すなわち、そのような当たり前のことを一生懸命行っていくことに、まさに生きる意義があるし、それ以外に、人間としての「生き方」はないように思います。