温室のトマトから大地のじゃがいもへ | ノーマライゼーション

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発達障害や精神障害(パーソナリティ障害)の、パッとみは定型発達や健常者とほとんど変わらない理解されにくい、一当事者の苦悩や体験や日常

自分の最近の関心事としては、自分は本来とても能力のある人間なのだということ、それはわかってきました。

ただ、それは自分を肯定してくれて受容的な雰囲気の中にいるという条件の中でで発揮されるもので

そうでない環境下にあってはそういう能力も発揮されなくなります。そんなところで、他者と差がついてしまうのですね。

 条件つきでのみ発揮できる能力なのです。これが、自分の根底に横たわっている一番の問題だと思います。

他者とのコミュニケーションの取り方の問題とともに。 今は温室のトマトなのです。

 さて、世間を渡っていくには肯定的で受容的な環境に必ずしも恵まれるとは限りません。

そして、そのような恵まれない環境下にあっても自分のもてる力の全てを発揮している発達障害者や精神障害者はたくさんいます。彼ら彼女らは、何をどうやっているのか。一つに思うのは、彼ら彼女らは、大地で育つじゃがいもを目指している。

そんなふうに思います。温室のトマトは、ちょっとした細菌ですぐやられてしまいます。しかし、大地で根強く育ったじゃがいもは、細菌なんかにはそう簡単にやられません。

少々、恵まれない環境におかれても、自分の能力を出し切れるように努力をしたのでしょう。

何をどうしたのかは分かりません。どのようにして、大地のじゃがいもという、少々否定的な環境におかれても

自分の能力を出し切れるようになったのか。

私も発達障害当事者のグループワークでテーマにしてみたり、当事者の体験談を読んだりして研究しているのですが、いまだにその答えみたいなものは得られません。

けど、一つ感じるのは大地のじゃがいもになっていってる人は、過去にまた現在において肯定的なストローク
を受けているのだということ。そして、それを自信にして、事に臨んでいるのだということ。

そのような、肯定的なストロークを与えてくれる存在がいたということ。それは、親かもしれない、友達かも
しれない、恋人かもしれない、先生かもしれない。過去からそのような人に恵まれれば、ラッキーなのかもしれない。もし、現在においてそのような人がいなければ、探すことは出来る気がします。

今からでも、遅くはないんでしょうね。真に心の底から、自分を肯定してくれる人と出会うこと。
そして、そういう人のことを、当事者会や自助グループなどでは仲間というのでしょうね。

そこから、いろいろなことは始まっているような気がします。