どうも~ヤッシです。

 

今回は以仁王の令旨で挙兵した美濃源氏を紹介します。

 

 

美濃源氏は源 頼政と同じ摂津源氏で酒呑童子などを討伐した源 頼光の流れを汲みます。

 

頼光の孫の国房が美濃国に土着したのが美濃源氏の始まりです。

 

1180年5月、以仁王が反平家打倒を掲げ挙兵したが力及ばず摂津源氏の源 頼政とその一族郎党と共に討たれましたが、以仁王は打たれる前に諸国の源氏に平家追討の令旨を下していました。

 

8月に令旨を受けた源 頼朝が伊豆で挙兵し同じく武田 信義率いる甲斐源氏も挙兵します。

 

9月には源 義仲が信濃で挙兵し、その勢いで越後の城氏や信濃、北陸の平家方を撃退し10月に頼朝と信義の連合軍と平家軍が富士川で戦い平家方を撃退します。

 

そして翌11月 以仁王の令旨を受け取った美濃源氏棟梁の源 光長を始めとする美濃源氏が挙兵。

 

それに同調するように近江源氏の山本 義経が近江で挙兵しましたが反攻する平家軍に撃退され美濃国へ逃亡し美濃源氏と合流しました。

 

1181年1月 平家軍が美濃源氏追討の為、美濃に進攻してくることになります。

 

美濃源氏と近江源氏の連合軍は敗北し尾張国へ退却し尾張源氏と合流。

 

3月、尾張国に進攻してきた平家軍と再度、美濃、近江、尾張の源氏軍が墨俣川で戦い、源氏軍を率いた源 義円(頼朝の弟)や多くの源氏方の武将が戦死してしまい義円と共に源氏軍を指揮した源 行家や光長らは信濃の源 義仲の元に敗走しました。

 

その後、1183年7月 北陸から進軍した義仲に従い従軍した光長も入京して8月に伯耆守に任じられることになります。

 

しかし、後白河院と義仲の関係が悪化すると院方に付き11月の法住寺合戦で院方の主力として御所を防衛したが激闘の末、子の光経共々、討ち取られ梟首されてしまいます。

 

その為、惣領は三男の光衡が継承し平家滅亡後は頼朝の御家人として美濃国土岐郡を領して土岐氏の祖となりました。

 

その後、子孫は美濃守護として繁栄し多くの諸家ができ、その中に本能寺の変で織田 信長、信忠を討った明智 光秀や信長の義父 斎藤 道三に追放された土岐 頼芸、豊臣 秀吉の正室ねねの義弟、浅野 長政が登場しました。

 

浅野 長政の玄孫で江戸時代の忠臣蔵で有名な赤穂藩主 浅野 長矩も子孫になります。

 

今回はここまでです。

 

ではでは。