なぜ楽園は神のもので、
人間は追放されなければならなかったのか。
ただそれぞれが担うべき役割があったに過ぎないのかもしれません。
そして世界は神々の望むように作り上げられるものなのでした。
神と人、
そこには絵に描いたような不平等な権力構造がありました。
神と人との関係が、
人間の世界に再現されてしまってきたのでしょうか。
人間はある意味で無邪気で、
なんでもしてしまうところがあります。
同じ人間に対して神のごとく振る舞うことを希求し権力を欲し、
ものごとを思い通りに動かす独裁者はひとつの理想でしょう。
または洗脳したり恐怖で縛って意のままにする、
神が人間にしてきたことそのままに人が人にする行為です。
人間は神を自由に解釈し、
神も人間を自由に解釈します。
その関係は、
成立しがたいようでいて合意されている不思議さがあります。
神にとって人間とは、
人間にとっての家畜のようなものです。
どのように生かしてどう殺し、
与えまた奪うかを手中にしているのです。
望む振る舞いをさせる術を心得ています。
直接的な要求も遠慮など無用ですし、
間接的にごく僅かな方向づけで気取られることなく仕向けもします。
人間たちが敵対し合うべきとなればそれをいとも簡単に創造します。
神々にとって人間とは、
あまりにも容易い存在だからです。
人類に仇なす人間がいることは確かです。
しかしその構図を求めているのは神々です。
神々とはなんなのでしょう?
簡単な答です。
三次元の世界に、
人間という存在の相対として初めからいる存在だったのでした。
神はいます。
けれども何を指して神なのかは知りようがありません。
人間とは人間だ、
としか言いようがないのと同じです。
この三次元において人間の内に二元性が反映されるように、
神の内にも当然二元性があるということになります。
あたかも完璧である神に矛盾が見受けられるのはよくあることです。
多くの人にとって一番理解し難い部分とは、
人間だ神だというところよりも三次元の徹底した二極化則のほうかもしれません。
私はこれまで、
神とは人間の想像の産物だと思っていました。
だから解けない謎があったのです。
でもこの度ようやく、
人間と神とが相対で存在するという理解に至り突破口が開けました。
人間を超えるということがどういうことなのか分からず、
そしてそれは神になることではないということを説明もできず息苦しさを感じていました。
三次元に人間と神が有る。
それは相対であり、
もともとひとつのものが分けられた姿である。
ゆえにどちらもが本体ではないのでした。
人間を超えるという言葉がそもそも間違っていました。
私たちは本来人間ではないのです。
だから超えられません。
何かにならなくてはと躍起になっていました。
神々と人類とで狂乱のロンドを踊り続けることが目的ならば、
終わりをもたらす答がどこからも得られるわけがありません。
でももうこの永かった予定調和の世界も完結するのです。
ラグナロク、
神々の死すべき運命のそのときが来ました。
