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かつて原始的な時代、
ヒトにとって感情とは持っているほうが生存に有利に働いていたのでしょう。

翻って現代、
感情は豊かなほど生きにくい世界だと感じるかもしれません。

喜びがあれば悲しみもあるのが必定なのに、そう理解することは難しいのです。

感じることはときに苦痛です。


感情、それはまさに二極の世界です。
ネガティヴ・ポジティヴという構図が分かりやすく、誰しもがそう学ぶものになっています。

ですが感情とは、当然ながら思考ではありません。

「湧く」もので考えて思いつくものではなく、発生したときにそこにネガもポジも本来はないはずです。


結局のところ感情を二極に分けているのは思考です。

思考となってしまうと、その二極性さえその人しだいの分け方であり、人によって違うものとなります。

だから感情というものが、理解し難いものなのだという印象になっている気がします。


思考は言葉がなくてはできませんので言語化が容易です。

感情は反応なので発生したものに干渉することはできません。
そして言葉で正確には表すことの出来ないものです。

言語化の容易なほうへすぐにすり替わるのは仕方がないのかもしれません。

感情とは分析や説明での理解は不能であり、その本質は共感でしか捕らえられないものなのではないでしょうか。


幸いなことに人間には本能として共感してしまうという機能があるそうですが、
その共感パターンのデータは個人の体験によって後付けで獲得されていくもののようです。

となってしまうと共感とは本当に他者の感情を理解できていることになるのか…。

あなたという個人の主観で経験を認知したものが共感の基礎となるわけですから。

もどかしいところです。


なんとも言えないのかもしれません。
共感とは個人の経験に依拠しているようであり、また感情自体が人体の一つの機能のようにも思われるからです。

感情の豊かさというのは種類の多さを言うのではなく、ひとつひとつの感情の大きさのことを指して言いますよね。

もしかしたら五感のように、限られた数しか必要ないのかもしれません。

それをあたかも無限のパターンがあるように見せるのは、
悲しいという普遍的な感じる部分と「なにが」「どのように」悲しいのかという体験的な部分とがあるからだと想像できます。


また、基になる「個人の経験」とは現世だけに限らないように感じます。

それに加えて時代や文化によって価値観は変わるものですから、同じ体験であっても背景によって知覚されることは異なりもするでしょう。

ひとりの人間の内には、様々な生の記憶が眠っています。


養老孟司先生は、恩師の言葉を引いてこう仰っています。
「人の心がわかる心を教養という」のだと。
そして教養とは「身につける」もので「頭の教育」で得られるものではないのだと。

人の心がわかる心とは、共感ですね。


人間とは字のごとく人の間に存在するのであり、間というのは、関わり合うことを言うのだと思います。

関わり合いを思考で争うより共感の力で分かり合うものにしていきたいと思う心を教養と呼ぶのでしょう。


DNAにはそんな共感の基となるたくさんの「身につけた」ものが記憶されているに違いありません。


幾層にも重ねておびただしい数の体験がひとりの人間の内にはあります。

それは今の生に直に影響を及ぼすものから、あたかも封じられる如くに奥深く息を潜めているものまで…。


例えば私は高所恐怖症ですが、それは高いところがというよりも死を感じるから怖いという感覚です。

なぜそんなふうに感じるのでしょうか。

私の内に、高いところから墜落死したことのある誰かの体験があるのです。
高いところへの怖さではなく墜落という記憶による恐怖です。

そのいつだかの体験に時空を超えて共感してしまうのだと思います。

身近な例えでしたがもっと壮大なものやもっと細密なもの、なんでも有り得ると思っています。

共感するということは自分を思い出すことでもあるのかもしれません。


表題の「いのり」は、
祈ることとは願いのような思考を介した念ではなく、もっと感情に寄ったものなのではないかと考え掲げてみました。


祈りに意図はありません。
言ってみれば魂の発露であり、人たる己から内なる神への共感、そんな気がするのです。

神である自分を思い出すということならば、無心の祈りをもっと感じていきたいと思いました✨



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ご縁をありがとう。








重石は除かれ、
封は解かれた。