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表題は、宗教的な意味を含むものでないということを先に申し上げておきます。



陰陽なら陰、ネガポジならネガ、聖と俗なら俗、光と闇ならば闇。

なにかを二つに分けてしまうとどうしても、感情から思考を通して好悪善悪がどちらかに振り分けられてしまいます。

逆に言えば、人間や社会はその違いをはっきりとさせることに腐心してきたのではないでしょうか。


あわいの定かでなかったものをくっきりと断ずる。

境界の曖昧さというものは、
経験によって吟味され丁寧に分離され、次第に二極のどちらかに定義されして歴史を重ねるほどに失われる道理です。


自分以外には他人しかいない集団でうまく関係を成立させていこうとしたとき、ものごとを細分化して共有することの徹底なくしては同意の形成を図っていくことができませんでした。

なにが正しくなにが善かを明確にし、互いにそれに則り振る舞うという知性がなければ、
同じ人間など一人としていない事実によって人類は組織だって何事かを成すことなど何ひとつ出来なかったでしょう。


なにかの実験をするとして、大切なのは初めの条件付けです。
どのようなルールを与えるかでおもしろいように結果が変わってしまいます。

私たち人類は、一方向へと流れる時間の中に生きてきました。

第二法則に支配された空間です。

それしか知りません。

結果、分けられるだけ分けたらもう終わりなのでした。
厳然と分けられた二極というものしか残らないことになります。


ここで統合とはなにか?に戻りますが、二極しかないのであれば余りが出ることはありません。

どちらでもないものを残していては三次元を終わらすことができないのです。


最後の聖戦とは、
徹底的に二極化しきった世にならなければ起きても意味がありませんでした。


それにしても徹底的な二極化に至るまでの苦しみときたら…。

よく耐えてきたと思います。

その役割に身を投じて、血涙にまみれて世界を見つめ続けた仲間や己の勇敢さを讃えずにはいられない。


終わりをもたらしましょう。

光を準備し続けた役割の人たちに始まりを手渡すために。



読んでいただけて感謝です。
計り知れない縁に栄光を。