「声」にその人、というのは出る。
あ、なんか狡そうな声、勝手そうな声、小意地が悪い感じの声、気楽そうな人の声、聡明そうな声、いかにも優しい人な声、、話し方までいかず、その「発声」「声」そのものに感じた色々な印象が、接していると大体実際に印象通りなのだ。

前々から自分が実際そうされたわけでもないのに「狡そうな声」や「意地悪そうな」声、って感じる声があるなぁ、と気になっていた。
声だけでそんな風に感じるのは自分でも不思議だったけれど、それはよくうちに来る宅配便のスタッフさんだったり単発のバイト先の人だったりしたので確かめようもなかった。
が、このところ一つの場所に常勤で働きに行く様になって、急にたくさんの人達と密室で立ち働く様になり、声の印象とその人の、人となりというのが大体イコールである、と裏が取れてきた。
狡そうな声の人は実際に自分のミスを自分の下の人間に被せる人だったり、意地悪そうな声の人は言う必要のない小言を人の尻馬に乗って追加してきては気晴らしをする人だったりする。

そこに自分の先入観が入ってしまっているのかは、ちょっと自分ではわからない。
一応新しいところに行くからにはフラットに謙虚な気持ちで入っていくし、色々な人の色々な対応も「この人にだって今までの人生があって今こうなっているんだからな」と、表面だけで決めつけない方針にしているので、ただ思い込んで決めつけているのではないんじゃないか、と思いたい。

声というのは、口先・喉・胸・腹・肚・脳天、と、発生する時に使う部位によって響きや印象が変わってくる。
狡そうとか意地悪い声の人でも胸から出てくるらしい優しい声の時もあるし、優しい声の持ち主が本音が混じった口先から出る狡そうな声色で憎まれ口をきいている時もある。
でもそういうシチュエーションごとの発声とは別に、声そのものの個性とそれがその人の人となりに絡まっているというところは動かない様に見受けられる。(聴き受けられる?)

で、自分の声だ。
私は自分の声がずーっとずーっと嫌い。
ひとことで言えば「マヌケな声」だから。
実際私は詰めが甘くてマヌケなところがある奴だから。
いつか本当にボイストレーニングなどで改善したいのだが、「いつかなんて日は絶対に来やしない」ままに還暦越えの恥の多い人生を続けている。
私が最近確信しつつある声と人格の関係性が正しいとしたら、私は自分の人となりを改善したらちょっとは頭良さそうだったり肝の座った声になってくるんだろうか?
それとも発声に気をつけるように少しエクササイズでもして発声を直していけば私のマヌケさ自体が改善されていくんだろうか?
目下のところ、それは相乗効果があるんじゃないか、と睨んでいる。
ボイトレ行けるくらい生活に余裕ができないかな、と今日もパート先でお弁当詰めながら思ったりする。

だからさ今、物部あやかさんのメソッドには結構注目してるのよ。
この発声に使う体の部位と松果体の話とか、なかなか面白い。





画像は何も関係なく徽宗皇帝が描いたらしい素敵な風俗画。

徽宗皇帝って言うと私達の歴史や美術の教科書には鳩の絵ばっかり載っていたけど、たくさん素敵な絵を描いていたんだね。

wikiで読むと北宋を潰す原因となった皇帝で、皇帝にならない方が絶対良かったひとみたいだ。