朝、ご近所のうちの畑を貸しているオバチャマから電話がかかってきて、年金機構まで車を出す。
息子さんがいるが彼が車で仕事に行くから平日、オバチャマには足がない。
喜んでお役に立つ。
 
先日、私の三重の展示にもきてくださったとある講座で同期生だった群馬のご夫婦が私の家に遊びに来てくださり、富士吉田の北口本宮浅間神社の「すすき祭」をご一緒したり宅飲みしたりして楽しいひと時を過ごし、
またそのすぐ後に多摩美のクラスメイトの訪問があったりして
その度、たいしたことはできないけれど自分なりにおもてなしをさせてもらえた。
 
人に小さくお役に立つとか、人のおもてなしをする、とか
こういったごくごく小さく人に喜んでもらうということが
実はすごく自分自身にかなりな癒しや救いになっているのを最近実感しました。
 
 
今自分は自分史上最低空飛行人生をしているから、なおのことこういう事が相手より自分自身にこそ効いているのが本当に実感でわかる。
自分の中の自己評価を意識して気合い入れて頑張って0に保っているところに、人と関われた事でジワっと楽に目盛りがプラスに動く感じ。
 
今更そんな事気がついたのかよ、って突っ込まないでね。
ここまで救いになる事なんだなー、と本当に肚に染みて実感したのはこの一連の出来事があった最近の事だから。
 
頭では、人のお役になったり助けたりという行為は自分が布施をさせてもらっているのだ、
人のためのようで実は自分のためのものなのだ、
だから助けている対象だってこちらのそういう布施をあたえてくれているのだ、という話は
聞いたり読んだりして「知って」はいたわけですが、
実感として本当にこういう風に自分は救われて癒されることなのか、と肚におちて納得したのは今回が初めてなわけですよ。
 
それは「親切にできて良かった」「楽しんでもらえて良かった」というような結果に対する心の浮き立ちでなくて、
気を張って風に倒されないように一人で荒野を歩いている自分の「無」の心にぽっ、と小さくマッチの火みたいなものがともって
「こんな自分でも人を喜ばすことができた」と小さく小さく心の中で何かが呟いて
その小さな灯がふわっと全身に溶けていく、 そんな感覚で、
それは確かに誰かに救われて祝福を与えられた、という感覚なのです。
 
わかりにくいかな?
 
私は正直、そんなに親切な人でも優しくもないし
人づきあいだって決して良くなくて、どちらかというと面倒に感じているタイプ。
人とずっと同じ空間にいるのは耐えられないし
何日も人に会わないでも一向に平気な人間です。
 
でもそれでも、人と関わって少しだけでも相手の役にな手足り喜んでもらえるということはこんなにも自分の側の救いになるんだな、と。
 
だから前より少しだけ人にはフレンドリーになるだろうし、人を招いたりすることも前よりもう少しだけするよういなるかもしれない。
それって関わる私にも相手にもお互いが功徳を送り合うことだった、と今回解ったので。
 
大袈裟かつ高飛車なことを書きますが、
「布施」というものは自分にとっての癒しと喜びの体験であり、実に純粋に自分のためのものであること。
自分がなにか人に奉仕できる機会があれば、それは自分は人からその機会を施されている、ということ。
奉仕されている側は助けられているようでいて、奉仕する側にそうする機会と(自分が癒されるという)体験を与えている、布施してもいるのです。

つまり人と人が巡り合ってお互いが何かサービスのやり取りをしたらそこに功徳の与え合いがうまれる。
美しいことですね。


人が来たらお稲荷さん修行の機会を布施されてもいるのであります。