「本質」。
これは1月末から東京の家の片付けを少しも歓迎されない中で続けてきた間中、頭の中で響いていた言葉。

本質とは、本質的とは、なにか。
私にとっての本質的とは、なにか。
私の本質にこれは必要だろうか?とか
この痛みやショックや不快は自分の本質と関係あるのか、とか
私は本質的なことしかやりたくないし本質的でなければもうなんの意味も魅力も感じない、とか。
本質的な事以外はなんでもどうでも良いな、とか。

本質的、って言葉が固ければ
自分の本当の本当の本当のところ、とか
自分軸、とか、そんなところ。

そんなことを頭の中に響かせながら実家の魔窟を片付けて、大叔母をみおくって、母が退院して、
をやりすごしているうちに
世の中は流行り病で一斉になんでも取りやめになってみんなが家に引きこもらなければならないようなことになっていた。  

子供は学校に行けないし
卒業式も演劇やライブ公演も中止
世界的なアートイベントも世界中で中止、  
こうこうこうならこのようになる、みたいな全ての「今までのやり方」も「今までのレール」も壊れた。

身は引きこもらなければならないのに、情報は溢れかえって人を煽ったり追い立てたりして
街に出て尻を拭く紙のために何時間も並んだり買いたいものが買えないからってお店の人を罵倒したりする人もいるんだってね。

あー、「本質」が問われてる・と思った。

たまたま私には一拍早くこのワードが降りてきていたけど、
みんなが今それぞれに自分の「本質」に向き合わなきゃならなくなったみたいな気がする。 

外側はさておいて、(外側なんか何一つ信用できないし)自分はどうしたいのか。
その「どうしたい」は本当の本当の本当のところの、本当なのか。(外側の煽るなにかに躍らされてないのか)
今、怖がっていることは本当の本当の本当のところ、本当に怖いのか。
煩いクラスメートとか社会的な目とか関係なく本当に楽しいとか本当に大事とか なんだろう、とか。 
社会がー、とか 政治がー、とか文句言っても間に合わないから自分は本質的には何を目指しそこへ到達するには自分でどうあるか、とか。 

本質的には、なんて考えても見なかったような人にも本質と向き合うビッグチャンスだね。 


私、実は今回コロナウイルス騒動で良かった、と思ってるよ。
これは現代日本の「強制終了」だろうと思うから。
強制終了って心屋仁之助さんの界隈のワードだけど・無理に無理を重ねたりすると必ず起こる神のドクターストップみたいなもの。
それは正直大きな天変地異でもあり得たし
国内の再度の原子力発電所の事故でも
他国の紛争に巻き込まれた戦争でもあり得たわけ。 
それが個々の免疫力に委ねられた流行り病であるというのは
(生化学兵器による戦争とも経済戦争とも言えるのかもしれないけど)
ある種のソフトランディングだったと思ってる。 

つまり私は私が体験しうる最善を、やはり体験してるんだと思う。 
すべての存在のご加護によってね。 
日本人、ツイてる! 私、護られてる!って思うよ。

だから、安心して落ち着いて「本質」から全てを見ていこう。
本質からさえズレなければ、何も怖くないし困らないし辛くならないよ。