慈悲の瞑想。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
日本テーラワーダ協会のHPより。
https://j-theravada.net/world/metta/
この「慈悲の瞑想」はテーラワーダ仏教(原始仏教)の流れのある団体では瞑想の前や後、
またいつでも気が向いたときにいくらでも唱えて良い瞑想というか、祈りの文言。
私が2回参加したヴィパッサナー瞑想の合宿では10日目にこの瞑想のガイドがあり、
このガイドの最中に心に文言が響いて泣いてしまう人続出。
(私は泣かなかったと思う)
この慈悲の瞑想は日々の瞑想の最後に毎日するように、とゴエンカ師の指導で言われるのだが
いいお言葉すぎて私はちょっと苦手だった。
気恥ずかしいっていうか実感がわかないというか。
実感がわかない祈りの言葉は「義務」になってしまうのでだんだんやらなくなった。
それが母が倒れて家族のことにどっぷりになり、
大人になってあまり関わりにならないできたきょうだい1人1人に個人としても対面するようになったら
自分にできることとできないことがあるけれど、
できないことの最たることに「他人に幸せになってもらう」というのがあるなぁ、と
腹の底から思うことが多くなった。
その人に幸せでいて欲しいんだけど、ほんとに私個人には何もできない。
その人が幸せを目指す、幸せに手を伸ばすと決めてそうしていくよりほかないから。
その人が自分の幸せを「感じる」「気づく」こともその人が自発的にしかできないことだから。
私は自分の幸せしか自分には関われないから、いくら願っても。
そういうことをしみじみ思うようになったら
自然と慈悲の瞑想の簡易版みたいなものが口に出るようなった。
「お母さんが幸せでありますように」
「○○ちゃんが(きょうだいメンバー)が幸せでありますように」
って感じの言葉がとても自然に心からの思いを込めて言えるようになった。
ということに気が付いたので、
せっかくだから慈悲の瞑想をそのままつなげて口ずさむようになった。
朝晩とかそういうことではなく
しみじみと、「ああ○○が幸せであってほしいなぁ~!」と思った瞬間にするようにしている。
慈悲の瞑想には上記引用したものの先があり、それは以下で
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
これを唱えてから
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
で締めなんだけれど、
この部分はまだ実感を持って言えないので
「生きとし生けるもの」の中にそういう存在のすべてが入っていることにして、前半の文言だけで終わりにしている。
(気が向いたら唱えられることもある)
イイヒトになったとか、穏やかになったとか、そういうことを言いたいんじゃなくて
(なってない)
ただ実感を持って言えるようになったんだよ、前より・という
自分の覚書。
自分の存在の非力さを腹の底から味わうようになったから、ともいえるかな。
非力さを実感するからこそ自分を超えたものにせめて願いを投げかけるというか。
そういえば私はメンタリストDaiGo君の動画を作業中に聞き流しているのだけれど、
彼が「慈悲の瞑想」押してますね。
そのものずばりを取り上げた動画はないけれど、瞑想の紹介の動画ではちょくちょく「慈悲の瞑想は効果ある」って言っていますな。
効果あるといいな・
こんなに自分以外を幸せでいてもらいたいと思ったことって人生で私はあんまりないもの。