母が倒れて1週間、無事2日前にHCUから一般病棟に移れました。

右半身の麻痺がやや残って、体全体としてはリハビリ次第では杖アリで歩行もできるようにはなれそう。

一昨日やっとトロミを付けないお水が解禁、ごはんも刻み食+トロミとお粥で麻痺した右手で一生懸命自分で食べていますが、舌の動きが芳しくないので右ほおに残った食べ物や錠剤をのみ込むのに努力が要ります。

一番深刻なのは言語、発語で、舌が動かないこともありうなり声を上げたりすることで意思の疎通をする感じ。

言語を理解することはできて、人の話は理解をしていてイエス・ノー的なコミュニケーションは可能、

作業療法士さんと自分の名前をひらがなと漢字で書く練習も始めていて、たどたどしくはありますが文字を理解して書くことも出来ています。

 

つまり総じて本当に、重篤な状態ではなかったといえます。

 

そうはいっても1日ごとの体調でかなり症状が違います。

前の日までできていたことが体調のせいでまったくできなくなっていて「思ったより重かったのかな」と思わされたり、体調が上がると「やっぱり軽かったんだな」と思ったり。

自宅でお父様を看取った友人が

「命ってさぁ、水の上に浮いた葉っぱみたいなんだよ。

水が静まっていると普通に浮いてるけれど、水に波がちょっと立っただけで揺れたり水の中に潜っちゃうんだよ。」

としみじみ言っていましたが、実感で解るようになりました。

 

面会時間が夕方なので見舞いを終えて遅い夕食を妹とファミレスで摂っていたりすると、

スプーンやお箸で食べ物を口に運ぶことはおろか、水を飲み下すのも、咀嚼するのも、咀嚼したものを飲み込むことも、オートマチックにやっているすべてがちょっとしたことでできなくなるすごい作業だったんだな、と思います。

 

母が倒れた日に私がもっと気を付けていれば、というような考えも浮かぶは浮かぶのですが

もう私は「自分責め」のストーリーからは卒業できているのでその辺のストーリーで遊ぶことはありません。

これから長くなるだろう介護生活も自分の制作ときょうだいの生活と、みんなうまくバランスを取ってやっていこうと思うだけで暗くも落ち込みもなりません。

 

でもさぁ、全く心が落ち着いているということでもなくて。(笑)

 

母が倒れたあくる日に弟の一家が次の日から家族旅行だからと言って全員で旅行支度をしてわーっと乗り込んできて大変に傍若無人で非協力的だったりしたりしたので

(詳細を書くと怒りが止まらなくなるので書かない・・。笑)

人に対する怒りと侮蔑と憎しみが止まらなくなったりして

 

天寿さんの 吐き出しのワーク をしたり

並木さんの「統合」をしたり

セドナメソッドをしたり

最近akikoさんが統合のワークのまとめの動画とテキストをUPしてくれたのでその中で気に入るものをかたっぱしから試したり(怒りには箱爆弾とか、爆発系がすっきりするね♪)

 

今日ヴィパッサナー瞑想のニューズレターで送られてきた内容も「湧き上がる怒りや悲しみへの対処」についてだったので活用してもみます。

そうだ、こんな良いテクニックにも触れていたのだったよ。

 

誰の言葉だったか、「スピリチュアルは役に立たなければ意味がない」。

人生に生かせなくて自分の抱えているケースに役立たなければどんどん他のメソッドや考え方に移っていい、

スピリチュアルは「道具」だってことです。

今こそオタク的に集めた情報を生かして重たい周波数を外していく時です。

解ってるんだ、本当は・そのためにこれが起こっているって。

 

起こっている「事実」というもの(事実と思っている映像)すら自分が目を醒ましていくための「道具」です。

 

「道具」は使うためにある。

道具を弄んでいるのは止めて、使うのです。

 

画像に意味はありません・FBに転載すると自分の顔がアップで出て嫌だから。

これならいいのかっていう話もあるんだけどさ。(笑)