昨日紹介した八木さやちゃんの「神回」インスタライブ https://www.youtube.com/watch?v=7wQrjyc6kag  には

沢山のパワーワードが出てきたんですが、その中のひとつに

 

「女には「修行」は要らない。女の体を持っているだけで毎日修行しているようなもんだから」

 

というのがありました。

男社会で発展した男の人の体での働き方には女性の、天体の運行や天気や生理に左右されて毎日毎日状態が違う体で同じに働こうとするのは無理がある、

女性が無理のない働き方をするには自分がビジネスを始めるのが一番手っ取り早い!

という趣旨のトピックだったのですが。

 

この箇所を聴いていてぱっと思い出したのは、先日劇場に見に行ったアルフォンソ・キュアロン監督の「ROMA」のワンシーン。

 

「ROMA」のネタバレ過ぎる解説 https://ciatr.jp/topics/311628

 

「ROMA」はキュアロン監督の自伝的作品で、大学教授で子供が4人もいるのに愛人と出奔して養育費も振り込まない父親とか

キュアロン監督の子供時代の家政婦&乳母であり主人公のメキシコ先住民の女性クレオを妊娠させ、妊娠を知ったらバックレるBF、しかも学生デモ鎮圧の武装集団に参加していて偶然クレオに騒乱の中で出会ったらクレオに向かって発砲して流産の切っ掛けまで作る、ここまで最低な奴っているのかという最低なBFというのが出てきます。

 

「ROMA」の主題って単純に言うと「男、サイテー」と「女性の聖性と連帯と自立」なんですが、

男がサイテー過ぎて(まともな男も出てきます、病院の先生とか運転手さんとか)、キュアロン監督が男性でもあるので「オレタチ男ってダメなんだよ~~女にはかなわないんだよ~~~」と言って甘えかかってきて結局女性に負担を押し付ける偽物フェミニストの香りを嗅いじゃって、

(キュアロン監督がそうとは言わない)

感動よりも先に

「自分でダメダメ言って楽しようとしてんじゃねぇ!女を持ち上げておいて女に甘ったれるんじゃねぇ!!!」

と腹が立ってきてしまって私は女性の聖性賛美の主題まで届くことが出来なかったわけですが。

 

妊娠を告げると姿をくらましたBFにまだ絶望していなかった時期のクレオがBFの故郷を訪ねて、東洋的な棒術(剣道ともまた違った)で心身を鍛える集団の中に稽古に汗を流すBFを見つけるシーンがあります。

その日は稽古に伝説のマスターらしい「大先生」がおいでになって、ある「マジック」を伝授するといいます。

それは 立って、目をつぶって、両手を頭の上に掲げて人差し指でペケマークを作って、なおかつ片足をまげてもう片足のすねの裏あたりにつけてフラミンゴのように片足で立つ、というもの。(笑)

 

あまりにもマヌケなポーズの紹介で、門人たる若者たちはざわつき始めるんですが、大先生、「どうした?こんな簡単なことかと落胆しているのか、ではやってみるがいい」と落ち着き払っています。

確かに、最低BFを含む門人の若者も、見物の村の老若男女もそれぞれやってみますが、ふらついちゃってたしかに誰もできない。

 

そのなかでひとり綺麗にバランスよく自然にすっくと立ってできている人が居ます。

クレオです。

八木さやちゃんの「女の体を持っているだけで毎日が修行みたいなもん」という言葉で、ここの、クレオがきれいなバランスでゆるぎなく片足で立っているシーンがふーっと目の前に浮かんできました。

 

このシーンを映画館で観ていた時にはイデオロギーと肉体の鍛錬にかまけていてもう救いようのないバカのBFとか勿体つけて深淵っぽい外来の(武士道・ヨガ)精神性を説いて人を煙に巻くマスターやそれをやすやすと信奉する騙されやすい人々とと実直に誠実に日々の生活に密着して働き、勤め先の子供や宿した命を愛するクレオのまともさの対比みたいなものを観ていたんだけれど

大地に根ざした地母神を象徴するような、もっと大きな生命感と神聖さをけっこう真剣に表現したシーンでもあったのかもしれないと思った。

本当のことがちゃんとわかっている、すべてを内に持っているあり方の姿。

 

いやぁ~なにしろ大先生の間抜けなポーズと、その前にクレオと一発ヤッたあとにフリチンで変な棒術をベッドの脇で突然披露するBFのとてつもないダサさに圧倒されていて、なぜキュアロン監督がここまで武闘集団や武士道を騙った安直な精神主義をカッコ悪くダサく、描いたのかまで考えが至らなかった。

キュアロン監督の、そういうものに対する侮蔑と不信感の激しさといったら、もう。(笑)

 

この東洋っぽい精神性を表に掲げた武道集団が学生デモを拳銃で蹴散らして学生を殺して回ったり、「俺は武道に出会って生まれ変わったんだ!」とか言っているBFがクレオ(とお腹の中の赤ちゃん)に対してどこまでも身勝手で冷淡なのっていうのがキュアロン監督が子供時代にメキシコで体験したことで培ったマッチョなものすべてに対する不信感の表れで、

武道で精神修養とか鍛錬とかできると信じている人にとってはこの描写は痛いだろうなぁ。

 

 

晴れ

波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波波

(「ROMA」のクライマックスシーンっぽくしてみました)

 

こんなことをつらつら考えていたら、八木さやちゃんの「自分ビジネス入門講座」で教鞭をとってらっしゃるロンズーさんが八木さやちゃんのインスタの同じフレーズの部分でなにか感じられたようで、ブログに取り上げてらっしゃった。

男性でご自分は「修行」をされている身で何か感じるところがあったご様子。

ロンズーさんは男女の在り方の違いの観点で述べられています。

子宮・精子の観点から男性は外側に自分の希求するものを見出しがちで、だから正しく追及していくためにメンターや修行が必要なのでは?という投げかけ。

 

 

男の人は自分の内側にわかりやすい臓器がないので、自分自身が源だという感覚が女性よりつかみにくいのかも。

でも、生殖専門の臓器じゃないかもしれないけれど、丹田(太陽神経系)とか胸腺とか、何よりも心臓とか、子宮以外にも体の中に源と繋がる部位がたくさんある。

これらの声を聞く、これらの意識と繋がる感覚を育むために、私は肉体と精神のバランスの良い鍛錬は絶対に有効だと思っています。

女性でもね。

 

女性に修行は要らない、というのも究極の答えとして正解と思うんですが、子宮の声を聞くにもそれなりの訓練とか決意はいると思うよ。

女性の体は体調が不安定だったり、生理、生理痛、各種婦人病、妊娠、出産、閉経、更年期障害、と修行しなくてもその声を聴かずには前に進めないような構造になっているのでそういうんだと思う。

それだって子宮の「症状」に振り回されているうちには「声」、本当の子宮の本音なんか聴けない。

つまり、一般で言うところとは別の、「修行」は要るんだと思う。

(リラックスとか自分を甘やかすとか怒りを解放するとか、そんな方向の修行だけど)

八木さやちゃんレベルに聞こえるようになれば、確かに外にメンターも要らないんだと思う。

 

私みたいに昔は婦人科系の病気があったけれど閉経とともに克服して、未婚で妊娠も出産も経験してなくて、ときめく好きな人もいない独身の女だったりすると、ほぼほぼ無性みたいなものなので、激しい子宮の声ってもう聴きにくいように思う。

そういう場合体の声を丁寧に聴くような訓練とか身体自身が本来持っている力の封印を解くような各種の鍛錬は有効に思います。

だから体の表面を地味ぃに追うヴィパッサナー瞑想と、体の鍛錬(ヴィム・ホフ・メソッドとスロージョグとちょっと体操)は今の私の修行セレクトとしてなかなかいい感じだと思っております。

 

並木良和さんは「修行は眠り」って言いきってますがねー。

修行することで盲目的に「これでいい方向に向かっているってことになってるはずだから」と自分の心と体の判断がなくなることが眠りだというんでしょうか。

その危険性は確かにある。

やっぱ八木さやちゃん正しい、が結論なのか。(笑)