予備校時代、4浪したときの話です。
暗黒の高校時代の中で、唯一息ができるところが美術室。
前に書いたように、絵を描いているときだけが頭の中で自分を罵るうるさい声が止んで、
絵を描いているときだけが私は生身で「世界」に触れられるような気がしていた。
絵を描いていないと、たぶん死んでしまう。
一生取り上げられないためにはどうしたらいいのか。
そうだ、「趣味」なんかでなくて、「職業」にしてしまおう!
今考えると大バカというか短絡的というか、でも正しいと言えば正しい判断で美大に行くことにした。
ところが美大予備校に行ったら、受験で絵を描く空間は異常な嫌な緊張感に満ちていて、生きることの救いのために呼吸するように描いていた自分の絵に対する向かい方とは全く違うものだった。
2年生の冬に予備校に初めて行ったその日はそのイライラトゲトゲした雰囲気に圧倒されて私は絵筆を持ったまま何も感じられず何も見えなくなって、絵筆を持ったまま硬直して一筆も描けなくなって目からぽろぽろ涙が流れた。
(自分で書いていても可愛いなあ、おい。)
山岸凉子の「日出る処の天子」で物部の巫女が雨乞いの時に神様の気配が全く感じられず、淋しさと絶望感で涙を流すシーンがあるんだけれど、そんな感じだった。
子供の頃からずっとつながっていた絵の天使との回路が急に切れちゃったみたいな生まれて初めて感じる絶望的な気持ち。
なんとか気を落ち着けて描き始めたら予備校の先生が張り切って指導に来て、「プロポーションが」「パースが」とか何とか云って私を画面の前から去らせて、私とは全く違うタッチで勝手に私の絵に手を入れて、さらに私を途方に暮れさせた。
(今考えるとそんな予備校に行かなきゃよかったんだよね、合ってない予備校だった。)
なにか描くたびに講師がすっ飛んできて直されるので、私は委縮しきって絵を描くことの中にあった何かを見失ってしまった。
絵というのは、自分の感性を信じて、自分がその感性に従って画面に成したことを全肯定しながら作り上げていくものだ。
否定されて直されてばっかり、というのはその逆だ。
元々思考やセオリーで描く方ではなかったので、自分の感性のようなものを否定されてしまうと根元からぐずぐずに壊れてしまって、今考えるといいところがどんどん自分の絵から失われていった。
でもそこの予備校以外に分割月払いで授業料を払わせてくれるところも見つからなかったので通い続けた。
さらにはそこの予備校では物の面の変わり目に「点」を打つ、物に「等高線」をつけるみたいな、すごく変な癖っぽい描き方がなぜか推奨されていて自然に物を描くことからどんどん離れていった。
その指導方針は受験生があまりにも受からなかったため春をまたいで終わったが、私の中の混乱はなかなか直らなかった。
現役で全滅、1浪目の終わりに私はついに一筆も描けなくなった。
画面の前に座ってモチーフを見る。
画面に向き直る。
すると、今見ていたモチーフが思い出せないのだ。
狂ったのかと思った。
具象の絵を描くということは、3Dの情報を頭の中で整理し直して2Dにそれらしく再現して見えるように移し替える作業なのだ。
予備校の先生に言われたことに振り回されすぎて頭の中が大混乱してしまった結果、それができなくなったのだった。
悲しかった。
子供の頃から息をするように描いていた絵が、描けなくなった。
生きるための杖のようにすがってきた、絵を描くことができなくなった。
受験直前だったのでなんの打開策もないままにそのまま受験に臨んだ。
頭の中の回路は壊れたままだったので、頭の中で
「えーと、ここに今青いテーブルかけのかかった台があります。
台の上に藤の籠、かごの中にリンゴが二つ、その横に石膏の幾何形体があります・・・・」
とモチーフを文章化して、画面に向かいながら復唱して、その文章化された「観念」だけで絵を描いた。
それって今思うと現代美術っぽくて面白い取り組みだが、(笑)
当然、大学はまた全落ちした。
一浪で全落ちした春休み、母が「スーツを買ってやる」という。
「アンタ浪人してどこも受かんないんだからサイノーがないのよ、あきらめて就職しなさい」。
そういわれるのは当然と言えば当然だ、素人の考えなら。
だけど。
私が子供の頃から描けていたように、自分の感性で、自分の持っている実力100%出して受験できていたなら私だってそう思う。
でも、子供の頃から息をするように描けていた絵を、その場限りの思い付きで一貫性もなく批判していればいいと思っているようなつまんない予備校講師に頭の中をぐちゃぐちゃにされて一筆も描けなくなって、それで絵をやめてしまったら。
あんまり自分が可哀想じゃないか!!
これで絵をやめて何か適当なところに就職でもしても、
この先なにか人生で嫌なことがあるたび、うまくいかないことがあるたびに私は必ずそこに引き戻されるに決まっている、
あの時、あきらめたからだ!と。
そんな可哀想な人生、私は私にさせない。
気が済むまでやらなければこの後の人生が全部だめになってしまう。
それは直感で解った。
ということで、4月になると9時から5時までフルタイムのアルバイトに行って、9月いっぱいくらいまで頑張ってお金を貯める、そして10月からその貯金で予備校代と絵具と画材や交通費をまかなって、半年受験生に復帰する、ということに(勝手に)した。
親に相談も説明も許可もなく無言でそうした。
(シロートの親に「頭の中の回路が壊れたから治るまでやる」とか何をどう説明したらいいのかわからなかったし。)
全然描けなくなった絵はどうやってまた描けるようになったのか、というと時間がかかった。
とにかく何もかも忘れて「生まれて初めて目が開いた人」になろうと思った。
モチーフの前で目を閉じる。
私は生まれて初めて今、目が開いた。
その時捉えた情報を、生まれて初めて絵を描く人として、画面に一筆置く。
また目を閉じる・生まれて初めて目が開いた人として、見る。
生まれて初めて絵を描く人として、一筆置く。
その繰り返し。
だから、最初の頃はひとつの絵を描くのにものすごく時間がかかった。
予備校のカリキュラムの時間では画面を埋めることも最初はできなかった。
感性だけで描いていたのが壊れてしまうと、色というのが使えなくなる。
感性で描いているときには画面が「次、ここ!」という風に「光って」(ホントの話)すっとそこにそのイメージの色を置いたりして描いたのだけれど、もう2度と画面が光ってくれなくなったので
油絵を描く時は茶系のバリエーションや無彩色で物の形を追うことから入ったり、
逆にしっかり木炭で下絵をとってから色遊びのように無関係の色を下地にぶち込んで、そこからその色に誘発される色で形を描き起こしてみたりするようにするとか、色々試していった。
2浪目も全落ち、3浪目もちょっと回復したとは思ったけれどやっぱり全落ち。
春になるとさも反省したようなふりをしてちょっと堅いアルバイトに行って、お金をためては予備校に戻る。
親は「アンタなんかサイノーないのに何やってるの!」と怒ったけれど、才能の問題じゃなかったのだ。
気が済むまでやらないと、人生に味噌がついてしまって結局ここに戻らなきゃならないのだ。
よく自殺すると結局人生の同じ課題をこなすために同じような状況に生まれ変わるというではないですか、あれよ。
【追記】
今考えればなんであの予備校に通ったのかな、と思う。
そこの予備校は大手予備校では工芸とデザインではかなり業績を上げてきた講師が独立して始めたところで、確かに高校同級生で同じ予備校のデザイン科に通った2人は複数の大学に現役合格して進学していった。
ところが油絵科は現役生も多浪生も含めて雨だれみたいにしか合格していなかった。
まず本気で大学に受かりたいならそんな業績の悪い場所にいてはいけなかった。
受講料が月払いで安かったにしても、もしかしたら似た形態の画塾(予備校でなく)でもっと自分に合ったところはあっただろうに、今の言葉で言う「情弱」とはこのことだ。
もっとも一浪以降は絵が描けないほど潰れてしまったので、事情の解らない新しい場所に行く元気は出ず、元凶になった講師も居なくなっていたのでズルズル同じ予備校に通うことになった。
(予備校話長いのでふたつに分けます。)