前記事の状態。

「頑張れない」どころか、今までの自分の「かくあるべき」「ちょっと良い自分」の全てをチャラにするみたいな自堕落ぶりです。
さすがに布団の中に失禁したりペットボトルにオシッコしたりしてないけど、
それはそんなことしたら「後で面倒くさい」ってわかってるからなだけ。

困ったなぁ、と思うんだけれど
昔だったら出た焦燥感や恐怖が出ないので、
いつもそれをガソリンにして動いてきた自分はやっぱりいったん止まってしまっても仕方ないかもしれない。

SNSとかで「頑張ってる」ふりを書くの、マジにもう無理。
1ヶ月前のヴィパッサナー瞑想合宿で4時起きして10時間瞑想してたのが嘘みたい。

って、書いて気がついた。

丸2日寝たきりで電子漫画読んでたのと清々しく4時起きで10時間瞑想していた生活について、自分の中の抵抗感とか手触り感とかは、同じ。
両者を分けているのは自分の中に「役に立つか立たないか」「生産性」「向上」「見てくれ」のフルイがあるからにすぎない。

今の自分反抗期の状態って「こひしたふわよ」ではないかもしれないけれど、
すごくニュートラルな気分です。

あ、もしかしてこの「ニュートラルな気分」の状態で、だんだん今までの自分の生活に戻れたらいい、のではないか。
それほどに「目的意識」「生産性」「向上」「より良き未来」「積み上げる」「叱咤激励」
みたいな意識を生活の燃料にすることに対して拒絶がきてしまってるのでしょう。

サボっていても「頑張り屋さん」に働いていても、中身は凪のような自分が欲しくて
どんな自分でも可愛い、を確かめたくて
やっぱりこういう感じになっているんだと思います。

通常営業の自分だろうと廃人な自分だろうと、自分の状態そのものに振り回されない、
いつも自分の中身の中身、は金色の光だと
揺るがず確認させるために体がそんなふうになっているんでしょう。

例え自分自身にだって
「愛されようとして自分に嘘をつく」
はもうできないんでしょう。

「向上した自分が欲しいから」
「足りないを補うために努力している自分が好きだから」
こういうの、一瞬良いように思っていたけれど
「違う自分になって自分に好かれたい」
だからね。

”愛されるための自分”を演じない。

リブログした天寿さん(寿虎さん、お名前変えたのですね)を読んでこのフレーズにハッとして書いてみました。

自分の前でも、愛されるための自分を演じない。