2回目のヴィパッサナー瞑想合宿、前回は苦手だった「聖なる沈黙」後の生徒さん同士のコミュニケーションが、今回とても有益だったというお話の続きです。

私は今回とにかく体の痛みに振り回されて、さらにそれが収まったら日常の本当につまらない経済的な苦しみが全面に出てきたりして、ぜんぜん「瞑想」の精神的で聖なる部分に触れられなかった気がして落ち込んでいました。

いくら準備不足だからって、ひどかったよね、と。

 

でもその「今回は特にダメだった」の話をみんなにカミングアウトしたら、3回目、4回目の「古い生徒さん」に

「私も2回目は酷かった」「なんでも2回目って一番難しいよね」という同意や

「その『うまくかなかった』というのはサンカーラ(反応・心の汚濁)が表面にでているわけだから、瞑想の目的はむしろうまくいっていたのでは?」という意見も。

あながち大失敗のがっかりの合宿でもなかったのかな、と思っていたところに

茂原の駅に一緒に帰った仲間4人で落ち着けるカフェに入って、経験をシェアしたらさらに自分の体験を落とし込むことができました。

 

同席した中に通常コースは5回目、奉仕は3回(?)されている一番経験者の女性Wさんがいらして、さすがに彼女の意見で目が開かれる思いをたくさんしました。

 

ヨガのインストラクターをされているというWさんには「心=身体である」ということがヨガとヴィパッサナー瞑想を通じて本当にはっきりと腑に落ちているということです。

だから彼女の様なかなりのヴィパッサナー瞑想の経験者でも「体の痛みがまったく出てこなくなる」ということはない、

なぜなら生きて生活する限り日々心に汚濁を創りだしてしまうのが人間で、

日々ヴィパッサナー瞑想をすることによってその汚濁をとにかく払っていくことの繰り返しだから、と。

 

ゴエンカ師の講話では

「ヴィパッサナー瞑想によって心の汚濁、何世代ものカルマの汚濁が体の表面の反応や心の妄想として表面に現れてきます。

それを嫌悪感無しに、ただ『アニッチャ』(無常)として過ぎてゆく物として観察していれば、それは消えていきます」

「その痛み、反応が出た時に嫌悪感をさらに持ったり、憎んだり、することは新たにそこに新しい「サンカーラ」(反応)を生み出します。嫌悪感を持ったり戦おうとしないで観察してください、それは消えていきます」

と、繰り返し繰り返し強調されます。

 

合宿の瞑想の時には「無常、アニッチャ」という言葉がとても仏教的だったので気がつかなかったのですが

心の汚濁がサンカーラ、反応となって表面にワーッと出てしまう時に

激しかったり苦しかったりするそれを、消えてゆくまで「観察する」「反応しない」「反応して新しいサンカーラを作らない」というのは

並木良和さんいうところの「地球のバイブレーションを手放す」「統合する」「一喜一憂しない」と同じことなのでした。

 

あら、こんなところで繋がったわ、ってなもんでした。(笑)

 

「統合」もそれが浮かび上がってきたところで捕えてやらないと、手放せない。

だから現実と向き合って「地球のバイブレーション」が浮かび上がってきたら、

「オイシイ」と思わなきゃ!でしたよね。

 

ヴィパッサナー瞑想は体の表面からさらに体を構成している個々の細胞にまで意識を向けて、細胞レベルでしみついていた汚濁を浮かび上がらせようという技なのです。

だから、静かに座っていようとしても淡々と水のように静かなままの心持ちだけでいられるわけにはいかないようなのです

 

つまり、私の今回の合宿で体が痛くて痛くて大変だったのも、Wさんの視点から見れば

それは単に「体がなまったまま来ちゃってちゃんと座れなくてハズカシイ」って話ではなく

「よくサンカーラが解放された」合宿だったということなのでした。

たしかに、並木さんの「統合」の考え方をすり合わせると、よく解ります。

 

だからヴィパッサナーで座っていて、体の一部が感じられない(気が滞ってる)ところとか、痛みがあるところがあったら、それは今までの汚濁がそこに浮かび上がってきたということ、

浮かび上がったらそれは「手放せる」、ラッキー!なのです。

 

じゃあ私の今回の合宿は手放し祭りで大成功だったってことでしょうか???

そういうことになるのかもしれません。(*^_^*)

 

そして「感じられないところ」や「痛みのある部分」に対してどのようにアプローチすると感じれられるようになったり痛みが消えるか、という話題も出て

私は「その場所の上から薄紫のクリームとかフォームみたいなものをふわっと塗りつけるようなかんじにすると、覆っていた膜のようなものが消えたり痛みが消える」、

Wさんは「少し自分の体から離れた場所からキリや矢のような感じで意識で貫く」だそう。

なににしても「嫌だな、困ったな、どうにかしよう」とは思わないこと、という意見は一緒でした。

 

精神、心、潜在意識・これがとにかくイコール身体そのもの。

身体がみんな、知っている。

(このへん旧子宮委員長はるちゃんみたいですね。)

もうこの瞑想では

瞑想中に体が痛くて気が散っていてダメだ、とか

なんでだか昔の嫌な思い出が出てきて腹が立って仕方ないからダメだ、とか

身体に感じられないところや痛いところがあるから未熟だ、とか

嫌な感覚が出ても自分を責める必要はないわけです。

サンカーラ出てる、手放せる、美味しい!!なのです。

 

自分の顕在意識で捕え得ない潜在意識やカルマに潜り込んだ心の汚濁には自分の意思や思考からはやっぱり手が届きにくい。

そこに「体の表面の感覚を観察する」という一見無味乾燥なテクニックでアプローチするヴィパッサナー瞑想って、やっぱりすごいな、と不発な感じがした今回の合宿ですら、思い知ったのでした。

 

このカフェでのヴィパッサナー大放談が無ければ、私は今回不発だった、という思いだけで帰ってしまったと思います。

あらためてご一緒させてくれたヴィパッサナー仲間に大感謝です。

 

今は1時間は無理だけれど、なるべく30分ずつとかでも朝晩座るようにしています。

酒呑んじゃうとだめだけどね。(笑)

で、本当にできるだけ1日瞑想には足を運ぼうと思っています。