9日目の夜に気がついて、10日目に先生に確認して、頭の中で実況中継をするのをやめて、
自分がすごく力んで瞑想をしていたことにも気がつきました。
身体の微細な感覚を追おうとしているのに力んでしまっていては微細な感覚に気がつないし、それこそ感覚を思考で捏造するような方向にいってしまう危険もあります。
だいたい、一昨年に顔に電流が流れているような感覚を捉えた時って、色々感じようと試してみてわからないから諦めて寝よう、と横になった瞬間でまさに「サレンダー」な時だったし。
必死、一生懸命、やる気、ってあんまり良くない状態なんですよね、瞑想には。(私の場合すべてにもう良くない、と思ったほうが良い)
力を抜くこと、もっと自然に感覚を感じること、に気を付けるようにしたら、
頭の中は無言でも感覚は体のある部分の表面の感覚に気がついていることが解るようになってきました。
ってか・今まで頭の中の実況が煩すぎて解らなかったんだよね、感じていたことを。
力が入っているときは体の外側から表面に小さなライトをあてるような感じで感覚を追っていたのですが
力を抜いて、ふわっと、そこの皮膚が感じている情報を「聴く」「耳を澄ませる」ような感覚にしました。
言葉にならないけれど、息づいている、とか、微細にピリピリする、とか。
当然ですがその方が微細な感覚を受け取ることができ、体のサーチに一巡する時間も短くなりました。
な~~~~~んか、10日目でようやくちょっとだけ、瞑想の部分でも進捗があったって感じでした。
10日目の午前中はみんなで「メッターバーバナ」(慈悲の瞑想)をして、その後は「聖なる沈黙」が解かれて同性同士なら瞑想ホール以外の場所では会話できるようになります。
「新しい生徒さん」である若い人達は10日も沈黙を続けることなんて生活でないから、はじけたように話を始めます。
正直私には苦手な時間。
でも今回は私は2回目の「古い生徒さん」なので、合宿の最初に本部が預かっていた私物を返す係に二人組で任命されていました。
やる仕事があるということは気がまぎれるし、仕事をこなすために口をきかなきゃならないし、この「係」をさせてもらってずいぶん精神的に助かりました。
私物を手渡すときに名前を確認したりすることだけでもコミュニケーションの糸口になったし、私は起床の鐘の係でもあったので話の接ぎ穂があって、最初の合宿では苦手だった沈黙が解けてからの自由時間は黙っている暇がないくらいたくさんの生徒さんと話すことになりました。
始めて参加した人から「2回目はどうでしたか??」と訊かれることが多かったので、正直に
「今回は体の痛みなんかで気が散って、全然良い瞑想にならなかった」
「最初の方は特に1回目に参加した時の自分と無駄に競い合ったりして、全然ダメだった」
と白状しました。
そうしたら3回目、4回目と多く参加している方たちに「2回目が私も一番きつかった」と言われたり
「むしろそうやって激しい反応が出た方が自分は『やってる』感がある、今回私は穏やか過ぎて逆に瞑想できているのか不安になった」というご意見も。
聖なる沈黙が解けて食堂に入った瞬間に、「さん!
さん!!」と私の本名で呼びかけてくる女性が居て、びっくりしてしまいました。
その女性は一昨年の最初の合宿の時にご一緒して、しかも最終日に一緒のタクシーて帰った4人のうちの1人だったのでした。
彼女はその後通常のコースを1回、コースの裏方をする奉仕を1回、と去年の間に真面目に修行を積み上げて、経験者の2番手として最前列で私の斜め前に座っていて、私は全くコース中に気がつきませんでした。
結局その彼女とはまた帰りもご一緒することとなり、一緒の車で帰った4人で茂原駅そばのたいへんくつろげるカフェでこの10日の体験のシェアをしたりしました。
最初の合宿ではやや苦手だった「聖なる沈黙後のコミュニケーション」だったのですが、今回は合宿そのものよりも、沈黙後の会話やそのカフェでの生徒さん同士の会話によってある種の答え合わせが出来て、生徒さん同士のやり取りから今回の合宿が実りあるものに完了したような感じになりました。
(その内容については次の記事で書きます。)