瞑想合宿も終わりが近づいてくると、夜のゴエンカ師の講話でも

「あと2日ありますが実は1日しか本当の意味での修業はできません」

などとカウントダウンが始まって、1回1回の瞑想タイムに真剣に向き合うように促されます。

 

私は色々な準備不足で、本当の意味での瞑想らしい瞑想になってきたのは8日目、9日目くらいだったなぁ、とほろ苦い気持ちで9日目の講話を聴いていました。

 

確か9日目の講話の後の最後の瞑想では「何でもいいから意識を下に持っていきなさい」というグラウンディングの指示が出たなぁ、と最初の合宿のことを思いだし、

その日の最後の瞑想はその気満々で座っていたら

その日に限ってなにもゴエンカ師の指示の音声がかからず、無言で無指示でみんなでただ座るということになりました。

 

あれ?私なにか思い違いしたのかしら??10日目の晩だったかしら??10日目って夜の瞑想やったっけ??

頭の中を???マークが飛び交いますが、おたおたしているだけではもったいない、瞑想しなきゃ。

グラウンディングにしようか、ヴィパッサナー瞑想をしようか、それとも流れに乗ってただ普通の瞑想をしようか、頭の中が最初めまぐるしく動いたのですが、

ながれのままに最初はただぼーっと鼻呼吸のアーナパーナだけをして、それから静かにヴィパッサナー瞑想に移りました。

 

で、気がついた。

 

私、ヴィパッサナー瞑想しているときに頭の中で実況中継がガンガンなっていてうるさいよね?

「はいっ、頭頂からスタートです!頭皮みてますみてます、耳の上来ました、目元にまつげの触る感覚感じてます、さて顎です、顎の下、空気感じてますよ!!!」

みたいな、さぁ。

今日なんかうるさすぎて左の脳味噌がむくんでる感じまでしたよね??

今、すっと静かに座っていても体の感覚って感じられてないか?

頭の中が実況中継で一杯、というのって「思考を追い出している」なのかもしれないけれど、それ「瞑想」なのか???

 

9日の夜になって、そんな初歩っぽい疑問が湧き上がってしまいました。

 

体感では頭の中は煩くない方が瞑想をしている感じがするのですが、

「実況中継」をしている方が「自覚的」「客観的」に身体の表面の感覚が追えているような気もします。

わっかんな~い。

 

ということで、10日目の「聖なる沈黙」が解かれた後にもある指導者との面談タイムに今回初めて申し込みをして、このことについて質問してみました。

 

結果として、「実況中継はしない」がマルでした。

「しなきゃ瞑想ができないというなら、しばらくはしてもいいけれどだんだんしないで済むようにしましょう」ということで、

「夜寝る前にぼや~っと横になって手や足の感覚を感じようとすれば、言葉にいちいちしなくても「感覚がある」のは感じますよね?そういう感じで気楽に力を抜いてやってください」

ということでした。

 

思えばここの瞑想コースでは一言も「自分の感覚を頭の中で実況しろ」なんて言われたことはなかったのです。

私が勝手に「言語化できないと『ちゃんと客観的に』感じたことにならない!」と思い込んですごい勢いで言語脳を働かしていただけでした。

それと・前回の合宿の後に日本テーラワーダ協会のお寺に泊まって、そちらの流儀の瞑想も少しやったときにそちらの流儀が混じったようでした。

(あちらは思考が始まった時に「ラベリング」をしたり歩きの瞑想のときに頭の中で実況中継をします。)

 

私、前回もそうだったのですが今回も最後の2日間くらい左の頭がむくんでいるみたいな腫れているみたいな変な感覚になってきていました。

それと同時に、「なんか瞑想をしている『爽快感』『癒し』じゃなくてヘトヘトになる感じなんだけど?」とも思っていました。

10日目になって今更、なんだけれど・自己流になってたんですね。

 

こちらの指導法では瞑想法自体を文章化したものは出ていないということもあって、自己流になるとそのままズレたままになってしまうんだなぁ、と体験で解りました。

これは・ゴエンカ師が講話で強調しているように1年に1回は合宿のコースに参加することって必要だし、

それが叶わないなら1日瞑想会に参加するとかしないとどんどんずれるな、とよく解りました。

 

(で、3月21日は1日瞑想会行ってきましたよ。

やはり良かっです。私みたいな気分屋はちゃんと本流の人達に触れる必要があります。)