なつかしいテディさんが存命中の「スピリチュアルTV」で紹介されて、一躍アマゾンで入手困難になった書籍があります。
シンガポールで生まれて育ったインド系の女性が末期がんで一度亡くなってから蘇生する体験を手記で書いた
「喜びから人生を生きる!:臨死体験が教えてくれたこと」アニータ・ムアジャーニ著
という本なんですが(リンク先はKindle版に行きます。)
これ、すごくお奨めです。
一度亡くなってしまって臨死体験をしているときの描写が本当に美しくて、死ぬのが全然怖くなくなります。
マジで。
多少この方がインド系の女性として育ったことの社会的、風習的な縛りへの葛藤の描写がくどいと思うのですが、この臨死体験の描写の鮮やかさと瑞々しさだけでも一読の意味はあります。
本当にただただ、光の存在であることを思い出すだけ、なのです。
そしてこのアニータさんは人生のいかなることも、子供の時に自分をいじめてきたいじめっ子すらも、自分が作り出してきた自分の人生のタペスタリーを構成していた「糸」であったことを臨死体験中に「視る」ことになります。
一瞬にして自分が「すべて」だと解り、「すべてを自分が体験したくて作ってきた」と解る。
みんな、自分が作っているのですって。
(それにしちゃ~あたしずいぶん不自由だけどなんで??マゾなの??)
リブログした寿虎さんもブログのどこかで書いていたようですが臨死体験されているらしく、
「ただただ光だった」とお書きになっていたと記憶します。
リブログした記事の
「自分とその周りの現実空間を水としてとらえる・どこまでが自分かどこからが現実か分かつことができない」「現実とは自分そのもの、自分が作り出していた」と解る
という表現もわかりやすいですね。
で・「死ねば全部わかる」。
その時にどう思うのか、というと
「な~んだ!もっと楽しめばよかった!」
「もっと気楽にやってみればよかった!」
「もっと~~すればよかった!」。
それらを生きているうちにその視点を思い出して、
その「もっと~すれば良かった!」で生きようじゃないの、というこの記事も首がもげるほど同意です。
ところで、末期のがんでの余命宣告を越えてもなお制作と発表をしていた知人の美術作家が亡くなりました。
私よりも10歳も若く、亡くなった時も今も、個展と複数の企画展で作品を公開中でした。
ドイツから日本に帰ってきて8年、ほぼずっと闘病しながら制作と発表を続けていました。
度重なる闘病の様子も、余命宣告されたことも、FBで知っていたんだけれどそこまで関係の近い友人で無かったので、遠慮が出てどう接していいかわからず普通に距離を置いていました。
余命宣告の話を聞いたときにアニータさんの本を紹介してあげたいと心から思ったのですが
もう知っているかもしれないし、こんなスピ系の本やら祈祷やら自然療法やら押し付けられてご家族ごと迷惑しているかもしれないので、ちょっとできませんでした。
この本読むと、ご本人も周りの方も死に対しては明るい気持ちを持てるとは思ったんだけれど、
そこまで近い友人じゃないから,踏み込めないな~と。
この本を教えたいと思うのも他人に妙に関わってて地球っぽいし
教えればよかったかな、と後悔が出るのも地球っぽい。
思い起こせば、本当に近い関係だった幼馴染が余命宣告されたときにもこの本のことは知っていたけれど、
臨死体験して、蘇生して、完全にガンが治っちゃった人の話なんて
余命宣告された人には希望なのか、腹の立つおとぎ話なのかわからなかったし、紹介できなかったっけなぁ。
だからまぁ、何が言いたいかというと
みんな「余命宣告」とかもらっちゃう前に自分でこういう本に出会っとく方が無難だわな、と。
アニータ・ムアジャーニさんは今も元気に講演や啓蒙活動をしていますね。
アニータさんのインタビュー映像。
帰国後のさちまるちゃんの瞑想に繋がるようなことを言っています。