この話はこれで完結。ここに持ってくるために色々起こったような気がしますよ。
さて、ひと窯焚いて全滅だった作品たちの様子をFaceBookに上げて笑ってもらったり原因について情報交換したりしていたんですが。
違う反応も付くのよね。
「割れた姿も美しいですね」。
うん、そうだね。
一定の質のものが大量にリズムを持って集まっていたりするのは現代美術っぽいし、
単体でも一個一個私が注意深く作り上げた作品だし、割れた破片だって、それは綺麗ですよ。
で・美しいものというのはえてしてトラブルを呼ぶ。
そのうちにコメントの中に「これを金継ぎして出せば十分売れる」だの
「(ちょっとこれを使ってなにか金儲けを考えてあげるから)捨てないで~」
「他のものに加工したらいい」
等々、ジョーク半分なのか妄想なのかビジネスの機会を与えてくれようという温情なのか
再利用に関しての意見が相次いで出てきた。
ジョークっぽいものはジョークとして流し、
ビジネスで組んでいる人の意見はさらっとながして直でもっとよく詰めようとかわして、
単なる思い付きには「そういう意見はよくあるけど乗り気でない」という風に答えているうちに、
もんのすごいモヤモヤしてきた。
ビジネスで組んでいる人達にはモヤモヤしつつもどういう方向なのかよく確かめようと思っているうちに
美術系の学校を出ているけれど作家ではなくて、ただ絵にしてもクラフトにしても上手に作る若い友人がやっぱり再利用の話を言い始め、いい加減うんざりしたので、やんわりと
「再利用云々の話はよくこういう時に出るけれど、作家としてはそういうことには時間も頭も使いたくない、というのが本音だよ」と
「もううんざりだぜ、この話はナシ」というつもりで書いたのですが
「だよね~。適当に(自分に)送ってくれたら、それをもとに何か考えるよ~、いいアイデア浮かぶかしら♪」
みたいな返事がきました。
ちょっと、すごく嫌な気分がしました。
なんでこんなに嫌な気分がするのだろうか。
確かにこれらの作品は割れてしまって廃棄するしかない燃えないゴミだけれど、と同時に、私が心血注いで作った作品(の失敗作)なのです。
ゴミだけど、誰もが自由にしていいゴミとは違う。
どういうといいかな。
子供、というと重すぎるから、ペット、とでも考えると解るかな。
自分が大事に飼っていたペットの狐が死んでしまった。
その狐の毛皮がすごく美しいからって、外野からズケズケと
「その狐、毛皮が綺麗だから私に使わせてよ!お墓に埋めるんじゃ勿体ないよ!!」
って言われている感じ、かな。
その狐の毛皮を取って何かにしようと思っていいのはまずその狐をとても愛していた私であって、
そうでなければ私が「この人になら託せる」と見込んだ人に涙ながらに「どうぞ使ってあげてください、あの子も浮かばれます」と言って許可するもんじゃないだろうか。
再利用についてやたらと「とっといてー」とか「送ったら何かに使ってやる」というような発想ってものすごく上から目線で傲慢で私が作家だということ、この破片が私が人生をかけてやっていることで生み出された作品だということについて軽く軽く見ているのではないか。
ってことでまずムカついているんだということに気がついた。
実際同業者はそんなバカなこと言わないもん。
解ってるんだよ、作家同士の礼儀で。
加えて。
ビジネス目的に何か再利用を考えてくれている人についてだって、
それでお金もうけができるんだから良いじゃん、という発想で安易に失敗作でも自分の作品を渡してしまっては絶対いけない、と思った。
私は食えていないけれど、貧乏だけれど、プロの「美術作家」です。
美術作家が作品を世に出す時、それはその作品を公開するということの意味についても全責任を負うってことなんだよ。
食えないからって失敗作に誰かほかの人が手を加えて、「たこ先生の作品を元にコラボレーションで新感覚のXXが登場しました!」みたいなビジネスって・・・・・。
平気な人は平気かもしれないけれど、私は嫌だ。
自分のこれまでにも、自分の作品にも、自分の作品を買ってくれた人たちにも、すごく失礼な感じがする。
たとえ失敗作でも、たとえ破片でも、再利用するというのであれば
私の作品を再利用する、ということに意味があるコンセプトで
そのコンセプトに私が賛同できるものでなければなりません。
私はもう社会性のある作家なので(食えてないけど趣味の人じゃない)
私の作品や私がする創作活動というのには「署名性」がある。
やたらとビジネスで組んでいる人達が「いいこと考えた!」とグイグイ来たからって気圧されて
モヤモヤしているのにYesは言ってはならないよ。
だって、作家なんだからね。
そのへんのことを手短にだけれど、はっきりコメントで返してみました。
作品がひと窯全滅するより、こういうことをはっきり好意的だけれど鈍感な人たちに説明する方が、
ずっと体力も気力も搾り取られました。
でも、言った。
そして自分がもう本当に「こひしたふわよ」に合致しないことは断らないと辛いんだな、ということが解ったよ。
今回の一連の満月のデトックス、この話をはっきりさせるために色々起こったような気すらする。
私はビジネスで組んでくれている人達には、自分がビジネスには全く疎いために何か方向が違うな、ピンとこないな、と思っていても「私はビジネスについて音痴だから」と違和感を感じても飲み込んでしまってきていた。
売れない作家である私をどうにかしようという善意から組んでくれている、という引け目があって、自分が意識しているよりずっと相手方に主導権を渡してしまっていた。
でも、それじゃあ全然ダメだった。
私が、今までの私からしたら赤面するほどに、「私が作家なんだから」ということを強く出さないと
全然周りには伝わらないで全然作家として尊重してもらえないんだということがよく解った。
それはつまり、私自身が私を「そこまで強く出ていい、立派な作家だ」と認識して扱ってあげていなかったから
まわりがそういう扱いを見せてくれた、ということ。
ほんと、これに尽きる。
そしてこれがわかったからには改める。
私はほとんど無一文だけれど、作家です。
作家というのは飢え死にしたって殺されたって曲げてはいけないところは曲げないのが、作家です。
それが作家が役にも立たないのに社会に存在する意義なのです。
苦手なお金を儲けるお話だって「今50億持っていたらこの話を受けるか」位を判断基準にしないと、本当に何が何だかわからないところに流されていってしまう。
それくらいなら飢え死にしてしまえ、自分。