ゆめみる宝石真の意味で「他人事」にしない

 

 

昨日の14 の内容についての補足で、この記事は並木さんの講演録というよりは並木さんの言葉から私が頭の中で私に向けて考えたことの記録です。

 

 

並木さんの講演を今日も聴きなおしていてここを拾わなかったからよく解らなくなったのではないか、と思う箇所がありました。 

 

「災害などが起こった時、ボランティアなど具体的な動きを起こすのも大切ですが、

まずは徹底的に自分を見つめてクリアリング(手放しと統合、浄化)してください」というのが並木さんのお話でした。

 

「本来私達は大きなひとつ、であるのだから

災害などで被災されて辛く悲しい思いを経験している人を「他人事でなく、あなた自身のこととして捉えてください」。

 

そこで「徹底的に自身をクリアリング」となるのですが、

地球意識に毒された私にはその飛躍がまさに「飛躍」に感じられて中々飲み込めないところがありました。

 

そりゃ自分の周波数が上がれば災害は起きにくくなるのは本当だと思う、

現実創造の仕組みを考えても、そうだ。

 

だからってまず重要なのはクリアリングで、被災された方に気持ちを寄せてボランティアだ、寄付だ、というのは「対処療法」だ、とは

なにか冷たいというか他人切り捨てみたいで

それこそ「他人事」にしているんじゃないか、とザワザワしてしまいました。

 

でも。

他人事にしない、真の意味で他人事にしないなら

私はそれを「自分の身に起きたこと」と捉える、本当にそれが自分に起こっている、と感じようとするでしょう。

 

そしてそれが起きた当事者の私が真に目醒めることを決めた態度をとるならば、

私は目の前に起きた辛い事実に対して湧き上がる感情のすべてを、必死で手放して浄化して統合していくはずです。

 

だから、「他人事にしない」なら「自分を徹底的にクリアリングしてください」なのですね。

 

 

うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座

 

並木さんの講演を聴けば聴くほど

今起こっている様々な酷い事に対する態度について考え込んでしまうことがあります。

 

例えば今起こっている私には同意し難い出来事に、反対の気持ちを表明するのはどうなのか。

民主主義の反対は独裁主義でなく「無関心」ではないのか。

Facebookなどでたくさん回ってくる「問題意識高い」投稿にどう反応するか。

怒りに震えている当事者の投稿を読んで、やっぱり「私が感じた悲しみをまずクリアリング」なのか。

 

正直、まだこれで良いのだ!というスッキリした境地には辿り着いていません。

 

でも義憤の怒りに満ちた投稿を読むと、その人の痛みにこちらもドキドキしてしまいます。

その人がすこしでもその痛みを手放せたら、そこからアクションを起こしたなら、と

感じる瞬間が多くあります。

 

「まず迷ったら手放してください」と並木さんのお言葉を採用して、まずは迷いも共感して得た悲しみや怒りも手放してみてから、

その時その時で考えてみています。

並木さんの講演会に次回伺えた時に、機会があれば質問してより深くお聞きしたいです。