さて・結局大神神社には行けなかったわけですが。
そのおかげでいまだに自分で自分の感情が全然コントロールできないということに直面して、もしかして大神神社にスムースに行けるより自分のためにはなった旅だったかもしれません。
帰ってきた後で、立て続けに「感情は自分のものではない」「機嫌の原因を自分を掘って探ろうとしても無駄」という記事を読んで、自分がすっかりいつも読んでいる宇宙の法則やら心のお勉強のこともあの時は忘れていたなあ、とよく解りました。
今になって思えば私は奈良に電車では行けないと近鉄四日市駅で知った時に、時間を気にしてスマホで対策を探し続けるよりも、まず「自分を取り戻す」「まず自分の状態を落ち着かせる」「自分をとりあえずハッピーにする」ことをもっと十分にやるべきだったかもしれません。
カフェに座っていきなり好きな甘いペストリーを2個も食べましたが、情報検索をしながらだったので落ち着き方が不十分でした。
あそこはどーんともっと美味しいものに集中してから情報を収集したら変わったかもしれない。
私は自分でイライラして(思えば朝にNHKのアナウンサーの煽り立てるような中継からずっとイライラしていました)波動を下げちゃって、下がった波動の世界を体験したような気がします。
ああ、残念な私。
もう2度とそんなことにはならないと決意します。
信楽の友人が誘ってくれたのに乗らなかったのはどうでしょう?
そこは私はじっくりハートの声に訊いて答えを出したので、その選択でOKだった気がします。
そのあと実は四日市から名古屋への特急に乗ったら隣の人がちょっと気に障ってしまって、そのおかげで私は世界で一番トゲトゲした人みたいな感じになってしまいました。
そこで自分で自分をコントロールできないのが自分でまた癪にさわるし自分に失望もしてしまうし、一生懸命「ありがとう」を唱えたってこのありさまだし、こんな人格じゃ「神様に呼ばれない」のも当たり前だよ、とますます凹んでしまいました。
これはどうすべきだったかって考えてみたのですが・ 多分どうにもならなかった。
感情はその時の出来事が起こすものでも、自分のものですらなくて、勝手にすでにあるものであって、
人も出来事も当然ながら、自分ですらどうにもできるもんではない、というのを誰かのブログで読んだことがあったのを思い出したからです。
(子宮委員長はるちゃんのだったようにも思うんだれど、そのものずばりが見つからない。)
その特急の相席の人も、もしかして大阪の地震も、全部トリガーに過ぎない。
「不機嫌」はそこにあって、なにかでトリガーが引かれてあらわれただけで、「自分が起こしたもの」ですらない。
そこで私が私自身をいたらない、と責めたてたのは間違っていたというか、人生の効率が悪かったと思います。
帰ってきて読んだ秦由佳さんのブログにも
「機嫌が悪いとき自分の中を探って問題を解決しようとしても自己否定が前提になっているのでうまくいかない。
すぐさま切り替えて問題追求をせずに
“望む状態”を自分の身体に創る。再現する。
機嫌良い状態を(体に)再現するのです。」
とあり、膝を打ったものでした。
思えば最近サボっているヴィパッサナー瞑想でも「感情も思考もただ流れているもの、流れているのを認識して観察すれば流れ去る」と強調されていたんですが、
すっかり忘れて落ち込んでみたりイライラしてみたり凹んでみたり酒呑んでみたりしていました。
四日市のカフェでヴィパッサナー瞑想を10分でもやるとか、そんなことだってやってみたら違っていたのにね。
機嫌よく、までは持っていけないにしてもヴィパッサナー瞑想によってニュートラルな気分にはなれていたと思います。
少なくとも四日市から名古屋まで地獄の使者のような不機嫌な女になって隣の人の旅に嫌な思い出を作るという迷惑はしでかさなかったと思う。
(隣の人、ほんとにごめんなさい)
旅から帰ってきて自分ってこんな未熟者だという事がますますわかって、
生活を整えて瞑想もスロージョグ&「ありがとう」もできる時間をちゃんと確保した方がいいなぁ、と思った次第でした。
【追記】
読み返して思った。
でも、やっぱり特急の隣の席の人、それなりに逆鱗に触れても仕方ない人だった。
自分ばっかり責めるのやめよう。
はるちゃんならきっと怒りっぱなしだ。
ブログで反省したフリするなんて自分に向き合わないで周りの目を気にして「不潔だ」って言われそうだわ。
ブログに書いてやっとここまでこの出来事が整理つきました。
私は書くのが必要。