これがもしかして一番大きいことかもしれません。
陶芸に対する執着が薄まりました。
え、いいの?と思われるかもしれませんが、陶芸に対する執着が薄くなりました。
これはヴィパッサナー瞑想自体が真剣に向き合いたいもののひとつだと思えたのもあるし
後に行った熱海の尼寺での尼様達との出会いのせいもあるかもしれないです。
前にも書いたように「母を看送ったら出家しちゃおうかしら」と、ふっと、ですが結構心の芯の方で思っちゃった。
そうしたら、陶芸に対する変な必死さが抜けて、すごく楽になってきた。
ヴィパッサナー瞑想に行くまでは陶芸は良くも悪くも私の仕事で、死ぬまでこれで飯を食っていかなきゃならない、と悲壮な決意をしていました。
業界ではそれなりに評価もされているし、応援してくれている人もいるし、オファーのあるうちはしっかりやらなきゃならない、
でもオファーがなくなったら、求めてくれる人たちが居なくなったら生きていけない!!
一生、制作の上で向上し続けて変化し続けて求められ続けなければいけない!
そんな風にかたくなに思っていました。
だから良いものができないといけない、とすごく自分を見張っていて思うように制作が進まないと自分にイライラしたし、
かといって自分を見張っているのでだんだん苦しくなって作品はできにくくなり制作はただ辛いだけになり、
自分と作風が被る若い作家が出てくると「真似すんじゃねぇ、潰れちゃえ!!」と心の底で毒づいたりして自分が嫌いになって、
自分と違う作風の人でも家族に助けられて楽しそうに制作しているような人のことは妬ましくて、孤軍奮闘して貧乏な自分がちょっと悲しくなったりもしました。
陶芸に関わるとね、良い自分も出てくるけれど真っ黒な自分もどんどん出ちゃうの。
それだけ大事だったからだけど、しがみついていて「執着」そのものでした。
でも、なんか、変わりました。
一生陶芸やっていなくてもいい。
真面目に、母を看送ったら出家しちゃっても全然オッケー。
寺女にでもなって、お寺の掃除でもして、ギリギリ食べられて、ただ死ぬのでも、いいのです。
なんなら托鉢に行ったまま行方不明でもいいや。
凄く気が楽になりました。
陶芸はできるところまでやればいい、
やる意味がなくなったらやらなくていい、
それどころか何者にもならなくてもいい。
あ。
若い頃から制作することが自分の心のバランスをとるのにとても大事だったので、
出来なくなったら狂うか死ぬ、と思っていて
誰にももぎ取られたくないから「仕事」にしてしまいました。
でも仕事にしたらそこに社会性が付いちゃったから、変なアイデンティティのよりどころになって余計にしがみついちゃって執着になっていたのでした。
でも今回ヴィパッサナー瞑想というもうひとつ人生を渡っていくための(かなり根本的な)ツールを手に入れたので、
陶芸だけにすがりつかなくてもよくなったってことでしょうね。
陶芸は、天が許せば続けられるだろう、
続けられられないときも来るかもしれない。
でもどんな状況になってもヴィパッサナー瞑想をして心を整えていけるので多分大丈夫だ、と、思うようになりました。
どんな状態でも、とにかくヴィッパッサナー瞑想というツールで落ち着くことができるだろうし、続けることで自動的に自分の心の傷を整え垢を取っていくことができる。
悪いようにはならない。
しかもヴィパッサナー瞑想は陶芸みたいに道具も材料も要らない、自分の身ひとつあればできる。
強がりでなく、心の芯の方がかなり落ち着きました。
陶芸に絡む自分のエモーションはかなりキツかったので、本当に楽になりました。
陶芸してもしなくても、何をしてもしなくても、「大丈夫」を目指していけるツールが今はある。
私が今までの人生で本当に欲しかった、「安心」を何十年かぶりに感じます。