Day5、あたりのゴエンカ師の指導の時のフレーズだったか。
「なんで体の表面の感覚になんか注目させるのか?」という事の答えをサラッと言っていました。
「そこに自我が介入できない」からです。
そう。
ヴィパッサナー瞑想というものの存在を知った時からずーっと私は不思議だったのでした。
身体の表面を追う事と私の人生の苦しみに何のかかわりがあるのか、ず~っとず~っとず~っと、よくわかんなかった。
それは確かに「今ここ」にいるための助けにはなるけれど、瞑想して自分の「ハイヤーセルフ」とか「高次の存在」とか「宇宙の光」から何かお言葉をもらえたりしたほうが自分的には救われる感じがするじゃないですか。
ヴィパッサナー瞑想って、そういうロマンティックな「救い」、全然期待できないからね。
「鼻の穴の感覚」とか「乾燥していてかゆく感じる背中の一部」とか、そんなところを「みーっけた!」ってやってるだけだよ。
全然ロマンがないっす。
クンダリーニが目覚めちゃって超人化したりしませんからね。
身体の表面に起こっている事象に注目して、それが固定化されず常に変化していることを感じて「すべてはアニッチャ(無常、移り変わっている)」を感じなさい、と言われるんだからね。
真面目にやっていけば体の細胞の細かい流れを感じるようになって、自己と世界の境がなくなるらしいけど・そんなの先の先だからねぇ。
でも、口のはじの乾燥して引っ張られる感じには「こう感じたい!」と思う自我からの介入が届かないのです。
それは、なんと安全なことか!
その「自我が介入しない」の言葉を聴いたときに、グル―プ瞑想のさなかだったんですが思わず膝を打ちまくって「その通りっ!!」と言いそうになりました。
ああ、「前頭葉がサナギで真ん中がバリッと割れて何かがメコッと」とかなんとか、
そりゃ自我の見せていた自我劇場だったんだなぁ。
瞑想していて宇宙意識を感じちゃったり、宇宙との合一を感じちゃったりして
「わだば覚醒した!!」とか有頂天になるのって、実は自我意識の極みなんだなぁ。
ロマンチックな出し物だったけれど、それは自我意識の見せている「自我劇場」なんだろうなぁ、とたちまち腹の底から腑に落ちたのでした。
私、もう「宇宙と一体化した!!」とか息巻いている人のことを「凄い」と思わないと思う。
可愛らしいな、とは思うかもしれない。
そういうものをスゲエ、って思ってきた過去の自分も含めて、ほろ苦いような愛しいようなさみしいような、そんな気持ちになると思う。
そういうロマンチックな救いを求めるのって、よくわかるよ、切ないよ、切なかったよね、って。
でももうそこを超えて行くんだよね、って。
Day2の夜に「合わない瞑想法かも」と凹んでいた私でしたが、今となってはこの瞑想法の考え方に出会わなかったら本当によくない方向に行ったなぁ~、危なかったなぁ、と思います。
自己流で瞑想していて前頭葉から何かがメコッって出て、それからもっと激しい反応があったりしたらとんでもない勘違いした宗教ババアみたいなものが出来上がっちゃったかもしれない。
ホント、Day2で気が付いたのは「早く気が付いてよかった」なのですよ。
長い一生のうちの、今、気が付いたんだからね。