久々に徹夜した。

今回の徹夜は「やることが終わらない」より「やっていたら朝になっていた」方。

昨日はグループ展用にお手頃価格の気張らない陶芸らしい形のものを作っていて、物凄く久し振りに「陶芸って楽しい。」と思った。
もしかしたら陶芸の作業自体を楽しいと思ったのは2年ぶりくらいかも。

制作はいつも楽しいというわけでないんだ。
どちらかというと辛いときが多い。
形のアイデアが出ないときは水の中で溺れているみたいに苦しいし、
具象的な形を作るときはおのれのデッサン力不足に絶望するし、
細かい作業の時は不器用で泣きたくなる。
それに引き換え陶芸らしい器の形を作るときは、ただただ形のバランスや厚みだけ考えて粘土の声を聴きながら頭でなく感覚で反応していくだけなので頭が黙り心が鎮まる。
器の作家さんはたぶん精神生活が健康的だろうな、羨ましいなあ、なんて思ったりする。

夜中流していたスピリチュアルTVもなかなか拾い物の回で、手ろくろを回しながらひたすら丸いものを作りつつ本質的な話題のお話を聴いているとさらに心が鎮まる。

朝になって神棚と仏壇にお祈りをするときも、「やっぱり陶芸って楽しいな」と思う気持ちがベースにあれば、感謝の祈りも口先だけでなく心から、細胞からのものになる。

つまり、「楽しい」ってここまで大事なのだ。
楽しい、と本当に感じられないならまともに感謝もできないのだ。

スピリチュアルTVのどこかの回で小泉さんが「日本人は徹底的にわがままに自分中心になった方がブレイクスルーしやすい、(外国人は逆)」と言っていたけれど、正しい。
心屋仁之助さんの「ゲスい」も正しい。
バシャールの「ワクワク」も正しい。
精神世界系のみんながみんな同じようなことを言っていてビックリするくらいだ。

自分が具象的な形を作っているときに苦しいのは、何かしらのお手本(写真や資料)に形を寄せよう寄せようとしてお手本に振り回されて迷子になり、頭のなかでは焦った自我がモタモタした不器用な肉体に突っ込む声が黙らないからだろう。 
それは粘土と私とできてくる形の三位一体みたいなうまくいっている作業の時とは全く違う混乱した有り様だ。
粘土と自分のやり取りだけになるほど対象物を自分のあたまの中に叩き込めてない。
自分の中にしっかりイメージができていたらあんなに作業が難航しないんじゃないかな。
つまり、うまくできるようになるまでもう一息だ。

制作の雑談でした。