芸能人の方々が癌で亡くなったり大きな手術をされたりしていますね。
先日、幼馴染の友人が「もう治療の方法がない」ということでホスピスの緩和ケアに転院したと連絡があった。
小学校の友人なので同い年。
一度目は克服して、昨年の再発も「治療が終わったら長年付き合っている彼と結婚する」のを張り合いにしていた。
昨年末に引っ越し、夏に入籍の報告があり安心していたところだったので少し驚いた。
友人は前向きな楽しい女性なので、「でも痛みのケアをしながらまだできることを探している」とはメールで書いていてくれた。
とりあえず元気で病気の経験も少ない私にはまったく予想できないステージを生きているだろうからなにも言うべき言葉が思いつかず、送り損ねていた結婚祝いとお誕生日祝いを兼ねた明るい色の花と、余計なお世話だけど評判の良さそうな非西洋医学の癌克服本も2冊送る。
そんな情報とっくに調べているかもしれないし、読むのもかったるいかもしれないから、「不必要だったりダブっていたらパートナーさんに託してどこかに寄贈して」とは申し添えて。
果たしてお花は普通に喜んでもらえたようだけど本の内容はとっくにご存知の様子で、お礼のメールとともに
「仕事をやめちゃった私には、強烈に生きていたいという生へのモチベーションが低いのが困ったところなのよ」という現状報告が。
私が送った本とは違うけど、最近人気の自己治癒本で「治癒した人がやっていること」9項目に
・抜本的に食事を変える
・治療法は自分で決める
・直感に従う
・ハーブとサプリメントの力を借りる
・抑圧された感情を解き放つ
・より前向きに生きる
・周囲の人の支えを受け入れる
・自分の魂と深くつながる
・「どうしても生きたい理由」を持つ
とあるので、「どうしても生きたい理由」っていうのに引っ掛かっているんでしょうね。
そうなんだよね~。
親も看取り、子供もおらず、仕事も休職して若隠居、という状態なら人はどういう風に生への執着を作るだろう。
自分だったらどうだろう。
私だったら。
私は実は周りが思っているほど制作に執着はしていないので、「最高の一作を作ってから!」などという闘魂みたいなものはない。
ただし作りかけのものは作り上げて死にたいので、個展の搬入翌日ぐらいに死ぬのがいいなぁ、と思う。
体力が落ちて作業が出来なくなってきたら、友人のように伴侶もいない私は何を楽しみにするか。
今現在では、映画やバレエや舞踏の公演の様なエンターテイメントを観ることなんだな。
私は「感動」が好きで、美しいもの、よくできたもの、人生や人の心理の不思議や不可解さを深く描いたもの、出来の良いものはB級C級のコメディでもその職人技に「感動」する。
いい映画なんか観ると「生きていてよかった」「まだ生きていてこういうのを観たいな」と思う。
美術や工芸の良いものでもそう思うけれど、体力が落ちていたら展覧会には出かけていけないだろうな。
だからって今、体力の落ちている友人を映画に誘うわけにもいかないよなぁ、、、。
他人には会いたいと思うだろうか。
それもその時にならないと解らない。
ただ良くも悪くも過剰にエネルギーの強い人や過剰に悲しがったり励まそうとしたりする人はお断りだろう。
(存在がやかましい人は元気なときだって苦手だ。)
淡々と薄味に、でもこちらの病状は踏まえていてくれる人なら会えるだろう。
案外よほど痛みがある場合などを除けば、日々の全てに生きている事への驚きや喜びが感じられるようになるんじゃないかとも思う。
使っている器、今日のお粥の美味しさ、空に流れる雲、だんだん涼しくなる秋の風、いろいろなものに。
でもその時にならないと、やっぱりわかることではない。
友人は「まだそんなに病人ぽくないから、そのうち会いましょう」とは言ってくれているので、あまり季候が悪くならないうちに顔を見せに行こうかとは思っている。
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実はさ。
生きることの「天命」は「ただ幸せであること」なんだよね。
特に、今の平和な日本でそこそこ恵まれた女性として生まれて来るのを選んだ魂としては、「花のように幸せに咲いている事だけ」を味わうのを選んできているんじゃないかと思う。
あんまり面倒くさい事考えないで、それでいいと思うんだ。
人がどう思うかは個人個人で違うので、他人にそれは押し付けないけれど。
先日、幼馴染の友人が「もう治療の方法がない」ということでホスピスの緩和ケアに転院したと連絡があった。
小学校の友人なので同い年。
一度目は克服して、昨年の再発も「治療が終わったら長年付き合っている彼と結婚する」のを張り合いにしていた。
昨年末に引っ越し、夏に入籍の報告があり安心していたところだったので少し驚いた。
友人は前向きな楽しい女性なので、「でも痛みのケアをしながらまだできることを探している」とはメールで書いていてくれた。
とりあえず元気で病気の経験も少ない私にはまったく予想できないステージを生きているだろうからなにも言うべき言葉が思いつかず、送り損ねていた結婚祝いとお誕生日祝いを兼ねた明るい色の花と、余計なお世話だけど評判の良さそうな非西洋医学の癌克服本も2冊送る。
そんな情報とっくに調べているかもしれないし、読むのもかったるいかもしれないから、「不必要だったりダブっていたらパートナーさんに託してどこかに寄贈して」とは申し添えて。
果たしてお花は普通に喜んでもらえたようだけど本の内容はとっくにご存知の様子で、お礼のメールとともに
「仕事をやめちゃった私には、強烈に生きていたいという生へのモチベーションが低いのが困ったところなのよ」という現状報告が。
私が送った本とは違うけど、最近人気の自己治癒本で「治癒した人がやっていること」9項目に
・抜本的に食事を変える
・治療法は自分で決める
・直感に従う
・ハーブとサプリメントの力を借りる
・抑圧された感情を解き放つ
・より前向きに生きる
・周囲の人の支えを受け入れる
・自分の魂と深くつながる
・「どうしても生きたい理由」を持つ
とあるので、「どうしても生きたい理由」っていうのに引っ掛かっているんでしょうね。
そうなんだよね~。
親も看取り、子供もおらず、仕事も休職して若隠居、という状態なら人はどういう風に生への執着を作るだろう。
自分だったらどうだろう。
私だったら。
私は実は周りが思っているほど制作に執着はしていないので、「最高の一作を作ってから!」などという闘魂みたいなものはない。
ただし作りかけのものは作り上げて死にたいので、個展の搬入翌日ぐらいに死ぬのがいいなぁ、と思う。
体力が落ちて作業が出来なくなってきたら、友人のように伴侶もいない私は何を楽しみにするか。
今現在では、映画やバレエや舞踏の公演の様なエンターテイメントを観ることなんだな。
私は「感動」が好きで、美しいもの、よくできたもの、人生や人の心理の不思議や不可解さを深く描いたもの、出来の良いものはB級C級のコメディでもその職人技に「感動」する。
いい映画なんか観ると「生きていてよかった」「まだ生きていてこういうのを観たいな」と思う。
美術や工芸の良いものでもそう思うけれど、体力が落ちていたら展覧会には出かけていけないだろうな。
だからって今、体力の落ちている友人を映画に誘うわけにもいかないよなぁ、、、。
他人には会いたいと思うだろうか。
それもその時にならないと解らない。
ただ良くも悪くも過剰にエネルギーの強い人や過剰に悲しがったり励まそうとしたりする人はお断りだろう。
(存在がやかましい人は元気なときだって苦手だ。)
淡々と薄味に、でもこちらの病状は踏まえていてくれる人なら会えるだろう。
案外よほど痛みがある場合などを除けば、日々の全てに生きている事への驚きや喜びが感じられるようになるんじゃないかとも思う。
使っている器、今日のお粥の美味しさ、空に流れる雲、だんだん涼しくなる秋の風、いろいろなものに。
でもその時にならないと、やっぱりわかることではない。
友人は「まだそんなに病人ぽくないから、そのうち会いましょう」とは言ってくれているので、あまり季候が悪くならないうちに顔を見せに行こうかとは思っている。
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実はさ。
生きることの「天命」は「ただ幸せであること」なんだよね。
特に、今の平和な日本でそこそこ恵まれた女性として生まれて来るのを選んだ魂としては、「花のように幸せに咲いている事だけ」を味わうのを選んできているんじゃないかと思う。
あんまり面倒くさい事考えないで、それでいいと思うんだ。
人がどう思うかは個人個人で違うので、他人にそれは押し付けないけれど。