一昨日は、早朝からちゃっちゃっと車乗って、電車乗って、お茶の勉強会や美術館や、とても充実した日を過ごしたのですが。
良い気分で充実した気分で床に就いて、起きたら。
朝からな~んにもできない。(^_^;)
どこが痛いとかじゃない、ただ、起きられない。
漏らさないようにオシッコだけ行けるけど、あとはどんより携帯みたり二度寝したりしてる。
歯を磨くのすら嫌。
これ、出かけて次の日大体そうなんだ、この1年位。
思えば陶芸教室を辞めたのも木・金・土の3日指導すると基本日曜日は寝たきりになってしまって、そこで「ちょっと潮時かも」ってことで辞ることを考えたりし始めたのでした。
で、ははは、辞めてもこうやって出かけるたびに身心不調になるので制作時間が全然増えない。
「前はこんなじゃなかったんだけどな」
「アタシなにかおかしいのかしら」
「これが所謂『卒卵』鬱??」
色々考えるけど、考えても生産的なことが何もできないのは変わらない。
「卒卵」というか、いまうっすら断末魔みたいに生理が来ているので、15年来の持病の月経随伴性気胸がこの無気力を作っているのかもしれない。
たぶん、それだ。
原因が解ったところで、何の対策もないので、昨日はあきらめてふと読みたくなった自分の蔵書の漫画コレクションから山岸凉子と大島弓子作品を出してきて、読み倒した。
ううう~来年6月までに個展2つにグループ展2つだ。
在庫もないし、全部新作だ。
でも頭で考えても動けないもんは動けない。
陶芸教室辞めたのも、体の問題だけじゃなくて、生徒さん達が私がいつも頑張ってると思い込んでいるのが辛くって辞めたのもあるのよね、たぶん。
ごめん、大見得切って辞めたけれど、私は月に半分くらいは廃人です。
ただの雲古製造機。
でもね。
この状態を受け入れて肯定してここから進むしかないわけですよ。
Face Bookなんか観ていると若い同業者の「頑張っているアピール」がこれでもかと流れてきて、焦りでくらくらしちゃうし・
そして、私は今までの人生、どんな苦境も基本「やたらと頑張る」だけで乗り越えて来た人なんだけど・
もう、「がんばる」メソッドは続けられなくなったという、新しい段階に来ているのを嫌っというほど実感している。
ここからどうするか、ってことなんだよ。
都合よいことに、というか運よく、というか、「『がんばる教』からはよ目を覚ませ」とか「宇宙にお任せ」とか、色々新しい考えが少しずつ入ってきていて、
今はそちらの方向にシフトしている最中、と自分をなだめることはできる。
なにも衰えたのでも間違っているのでもなく、新しい局面なだけ。
家族がいないし世話する人もいないからこんなにルーズになっちゃうんだ、と自分を責めそうになるときもあるんだけど、
逆に、これで家族なんか居たら「グデグデするな」「気力が足りない」「そんなことでどうするの」と責め立てられて、自分をさらに責めたりして地獄のようになったと思う。
ので、この状態で完璧だ。
罪悪感、自分を責める、一番良くない。
まずは、絶対に自分を責めないで赦す。
これ、「がんばる教」信者だったから、本当にむずかしいけどそれこそ一所懸命とりくんでるよ。
頑張ってきたから、今があるんじゃなくて・受け取ってきたから、今がある、と意識を書き換える。
チキショー!って頑張るんじゃなくてもっとふわっと、淡々と、できるだけのことをする。
自分を罰さないで、より善いことを望む。
他人からも「がんばらないんでいんだよぉ~」と「アドバイス」されたりするけれど、言われたからってこっちは50年頑張るメソッドでやってきてしまったので、言われたからってなかなか簡単にはいかないんだよ。
(言われれば言われるだけ「オマエニナニガワカル」って反発しちゃうしね。「制作姿勢についてのアドバイス」ってよほど信頼している同業者でも受け入れられるか微妙だ。作家っていうのは自分が世界の中心だからね。自分と素材と芸術の神様の言う事じゃなきゃ基本聞かないんだよね。)
「もっとやらなきゃダメじゃないか」とはっぱをかけたがる画廊の人やら批評家さんやら逆に「頑張るからうまくいかないんだよ~」と「アドバイス」をくれるスピ系の人も、とりあえず私はこうやって体を張って意識の書き換えを「頑張って」(笑)実践しているのは解って欲しいわ。
今日は少し良いので起きて家事と携帯電話の乗換え手続きをして、午後少し作業もできます。
今までの1/3くらいしか色々できないんだけど仕方ない。
深刻な病気になって「がんばる教」の強制終了になるより、きっと楽な道を歩かせてもらっているはず。
良い気分で充実した気分で床に就いて、起きたら。
朝からな~んにもできない。(^_^;)
どこが痛いとかじゃない、ただ、起きられない。
漏らさないようにオシッコだけ行けるけど、あとはどんより携帯みたり二度寝したりしてる。
歯を磨くのすら嫌。
これ、出かけて次の日大体そうなんだ、この1年位。
思えば陶芸教室を辞めたのも木・金・土の3日指導すると基本日曜日は寝たきりになってしまって、そこで「ちょっと潮時かも」ってことで辞ることを考えたりし始めたのでした。
で、ははは、辞めてもこうやって出かけるたびに身心不調になるので制作時間が全然増えない。
「前はこんなじゃなかったんだけどな」
「アタシなにかおかしいのかしら」
「これが所謂『卒卵』鬱??」
色々考えるけど、考えても生産的なことが何もできないのは変わらない。
「卒卵」というか、いまうっすら断末魔みたいに生理が来ているので、15年来の持病の月経随伴性気胸がこの無気力を作っているのかもしれない。
たぶん、それだ。
原因が解ったところで、何の対策もないので、昨日はあきらめてふと読みたくなった自分の蔵書の漫画コレクションから山岸凉子と大島弓子作品を出してきて、読み倒した。
ううう~来年6月までに個展2つにグループ展2つだ。
在庫もないし、全部新作だ。
でも頭で考えても動けないもんは動けない。
陶芸教室辞めたのも、体の問題だけじゃなくて、生徒さん達が私がいつも頑張ってると思い込んでいるのが辛くって辞めたのもあるのよね、たぶん。
ごめん、大見得切って辞めたけれど、私は月に半分くらいは廃人です。
ただの雲古製造機。
でもね。
この状態を受け入れて肯定してここから進むしかないわけですよ。
Face Bookなんか観ていると若い同業者の「頑張っているアピール」がこれでもかと流れてきて、焦りでくらくらしちゃうし・
そして、私は今までの人生、どんな苦境も基本「やたらと頑張る」だけで乗り越えて来た人なんだけど・
もう、「がんばる」メソッドは続けられなくなったという、新しい段階に来ているのを嫌っというほど実感している。
ここからどうするか、ってことなんだよ。
都合よいことに、というか運よく、というか、「『がんばる教』からはよ目を覚ませ」とか「宇宙にお任せ」とか、色々新しい考えが少しずつ入ってきていて、
今はそちらの方向にシフトしている最中、と自分をなだめることはできる。
なにも衰えたのでも間違っているのでもなく、新しい局面なだけ。
家族がいないし世話する人もいないからこんなにルーズになっちゃうんだ、と自分を責めそうになるときもあるんだけど、
逆に、これで家族なんか居たら「グデグデするな」「気力が足りない」「そんなことでどうするの」と責め立てられて、自分をさらに責めたりして地獄のようになったと思う。
ので、この状態で完璧だ。
罪悪感、自分を責める、一番良くない。
まずは、絶対に自分を責めないで赦す。
これ、「がんばる教」信者だったから、本当にむずかしいけどそれこそ一所懸命とりくんでるよ。
頑張ってきたから、今があるんじゃなくて・受け取ってきたから、今がある、と意識を書き換える。
チキショー!って頑張るんじゃなくてもっとふわっと、淡々と、できるだけのことをする。
自分を罰さないで、より善いことを望む。
他人からも「がんばらないんでいんだよぉ~」と「アドバイス」されたりするけれど、言われたからってこっちは50年頑張るメソッドでやってきてしまったので、言われたからってなかなか簡単にはいかないんだよ。
(言われれば言われるだけ「オマエニナニガワカル」って反発しちゃうしね。「制作姿勢についてのアドバイス」ってよほど信頼している同業者でも受け入れられるか微妙だ。作家っていうのは自分が世界の中心だからね。自分と素材と芸術の神様の言う事じゃなきゃ基本聞かないんだよね。)
「もっとやらなきゃダメじゃないか」とはっぱをかけたがる画廊の人やら批評家さんやら逆に「頑張るからうまくいかないんだよ~」と「アドバイス」をくれるスピ系の人も、とりあえず私はこうやって体を張って意識の書き換えを「頑張って」(笑)実践しているのは解って欲しいわ。
今日は少し良いので起きて家事と携帯電話の乗換え手続きをして、午後少し作業もできます。
今までの1/3くらいしか色々できないんだけど仕方ない。
深刻な病気になって「がんばる教」の強制終了になるより、きっと楽な道を歩かせてもらっているはず。