毎月一度のI先生の「日本の装飾芸術」講座。
母校で教鞭を執るI先生の本格的で楽しい講座がなんと場所代500円だけで受けられる。
以下は今回の内容の覚書。

今日は美術を少し離れて「狩猟と食とを考えるーもうひとつの日本文化」として参加者の1人の才媛Yさんの発表。
Yさんはかなり本格的に民族学を研究していて、世界各地の奇祭にもよくリサーチに行く。
そのなかにカトマンズで開かれる少女の生き神様クマリを祭る「インドラジャトラ」などで祭に動物を殺めて捧げてそれを食べる、という儀式に多く触れ、日本での祭祀と供物と生け贄の関係が気になり、さらに肉食が禁忌になる前の日本の肉食文化が気になり、調べてみたそうな。

まず日本でも生の肉を神事に使う例として千葉の香取神社の「大饗祭」。
神無月に出雲大社に集まった東の方の神様達が地元にお帰りになる前に休憩してもらうためにご馳走を捧げる神事だそうだ。
米の煮たものを藁で巻いた巻物、鮭を切り大根に巻き付けて高く盛ったもの、地元の川の鴨を一度解体し(たぶん料理してから)損なわないように取っておいた首、翼、羽などを使いまた生きているような姿に再現して出されるもの。生の魚もあったかな。
米を煮たり巻いたりは普通の格好の氏子さんらしい人達がやっていて、鮭を大根に巻き付けたり鴨をさばいてまた鴨に再現するのはきちんと烏帽子を着けてマスクもつけた宮司さん達。
祭りは3日で、初日は鴨や鮭など肉が出て2日目は精進で3日めはお料理をしてくれた個とになっている女神達に休んでもらうためにお餅を使ったアレンジメントが供えられるそうだ。

*こちらに詳しい写真レポートがあります。
http://takakei3.web.fc2.com/taikyousai.html

Yさんのレポートはそれから鹿や猪など古来から日本で食べられてきた肉に向かう。
現代人と狩猟、農林業の鳥獣被害とジビエによる町起こしの現場のレポート。

さらに日本古来の捕鯨文化の土地での取材。
捕鯨文化の盛んな場所だった地区は鳥獣被害が酷くてもそれらをジビエとして活用することに興味がない。
(不味いし面倒くさい、ということです。確かにシカやイノシシの解体は細菌の問題もあり絶対の内臓を傷つけないようにして内臓は破棄、など面倒臭い。)
鯨は巡回して浜に来る生き物なので、来たりて肉を与えてくれる神として敬虔に遇される話。

I先生より肉や生け贄を祭祀に使うので今に残っているのはアイヌのイヨマンテだが、
元々はあれは本土にもあったお祭りであり、捧げ物は猪だった。
アイヌは元々は瓜坊をお祭りのために本土から輸入していた(!!!)、という驚愕情報。
本土が四つ足を食べなくなり、瓜坊が手に入らなくなってからイヨマンテに熊を使うようになったそうだ。
(瀬川拓郎 「アイヌ学入わ門」講談社学術文庫2015 によるそうです。)
特殊、と思っていた習俗が実は昔は広く行われていて辺境で残り特殊に見えていく例、とか。

「インドラジャトラ」でのヤギの地で清める儀式で「血=清浄」と思う文化の存在の話。
「命を頂く」ということのけじめとしての儀式の必要性。
(ハラル・ミートなどの在り方・Yさんのラップランドでの「昨日まで愛していた家畜を屠るために儀式が必要」という体験。)
「狩り&屠って食べる=祝祭」であるので、現代人は「解体」から見ないと肉を頂くということの真の祝祭性を感じにくいのではないか。

最後に、Yさんが関わってる岡山県の鳥獣被害対策の一環として生産されたジビエ料理をみんなで試食。
鹿のロースト・鹿のソーセージ・鹿ミンチのミートボール、猪のロースト、猪の野菜炒めを赤ワインと日本酒で。
ワイワイ食べながら動物食談義。
韓国から来た参加者が「昨日の土用の丑の日は韓国ではイヌを食べる日なんだよ」と。
韓国ではウナギでなく狗の焼き肉を食べるそうだけれど、1988年以降表だってたべられなくなり、代わりにサムゲタンが食べられるようになったとか。
山梨はイルカを食べるんですよ、と私。
韓国では牛を丸ごと屠って吊しておくのだけれど、絶命してからも牛はピクピク動くそうで。
鶏一羽だってつぶして食べられるようにするまで手間が大変だよな、ってお話。
Yさんは狩猟免許を取るそうで、すでにお友達の同世代の女の子は取っていて狩りにも行ったとか。
気合入ってるなぁ。

「古代インドの思想」(講談社新書)
「アイヌ学入門」(瀬川拓郎・講談社現代新書)
「新版・稲作以前」(佐々木高明・NHKブックス)

は読むと今回の話題を深く考えられるようになるでしょう、と。

以上、覚書でした。

自分で一番今回強く印象に残ったのはイヨマンテがもともとは本土の風習だったという話。
自分の「いにしえ」のとらえ方が農耕前まで全くイメージできていないのを思い知りました。
北海道に2回も今年は行った縁でアイヌについてもう少し深く知りたいと思う。