数字は比率と倍数しか表わすことは出来ない。例えば1+1=2。これは右が1で、左が比率を表わしている。3×4=12も右が1で左が比率を表わしている。数字で絶対値を示すことは出来ない。数学がやっている事は比率を内部的に操作する事だ。同様に言語表現ができる事も比率の内部操作であり、絶対値を表わす事はできない。以前これを私は、言葉では百万言費やしても本質を表すことは出来ないと表現していた。同様に、我々の実在的な世界の在り様も、比率(表象としての我々も含む)が比率を操作する内部操作であって、この世界に絶対値や本質は出現しない。

 

 世界は道具性で構成されているが、最小単位の絶対値を表わす道具を我々は持っていないということだ。いかに哲学や数学や物理学を利用しても、それは1+1=2の枠内で、論理をこねくり回しているだけだ。どれだけ論理を展開して、細分化し、分析しても絶対値は示せない。これは数字だけでなく、表象も同じだ。素粒子やニュートリノという小さな単位まで分割しても、それが示しているのは比率に過ぎない。この絶対値は、何かの定理にあてはめる事さえ拒むかもしれない。逆説的には、全ての定理を無効化する何かが絶対値だろう。従ってこの絶対値は、唯一無二の不確実性という性質を持つ。

 

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 細胞や器官の従属性は、私が絶対値を提供しているからか?若しくは細胞は私に絶対値の確定を求めているのか?のどちらかだ。これは無意識的欲望だ。無意識は原理的であって、公式的、定理的だ。緻密で正確な計算様式を行う。時空を構成している。その精密さによって、時空を構築している。この無意識の計算能力の高さは数学者や物理学者に顕在化している。しかし、比率の計算では、この絶対値には辿り着かない。例えば、生死がある。これは0%か100%だ。この二項対立は、いずれかを確定しなければならないという性質を持ち、中間のレベルが無い。比率では閉じる事が出来ない。0%か100%の二項対立は比率の枠外である。つまり0と1の間の比率は操作できるという数学や数字とは違うという意味だ。この意味は、「0と1を与えよう。では、どちらかを決定しなさい」という指示だけでは、数学は何の解ももたらさないという事で明白である。数学は0と1の間の比率操作だ。無と有の間の比率操作は可能である、という現実の表象視点の世界と全く同じではないか。今言ったように、これは表象視点である。比率である私視点である。表層的視点である。原理主義的視点と言ってもいい。

 

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 心理学の分野で欲望の未分化という表現がある。これは最小単位の絶対値がもともと同一であり、欲望は分化しても求める最小単位は同一である、という事ではないか。感覚器官の多様化は、無意識的には絶対値を確定し確定的な原理支配を証明する為、原「私」的には、絶対値が不確定性を持つ事を証明するため、という矛盾的な目的性を持っている。

 

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 殺人者は、完全証明を試みて、やはり絶対値を確定できない。連続殺人者は、絶対値に対する確定性の欲求が、殺人を実行すればするほど高まり(これは食に対する態度と同じだ)、何度も確定しようと試みる。猟奇的殺人者は、単に殺害するだけでは確定できない事を予め知っており、残忍性を持って殺害する。この場合、過去に残忍性を体験し、即ち確定に近づいた感覚を体験している必要がある。また残忍性による確定近似体験が、身を持って体験する必要があるか否かは個人的資質に従うかもしれない。テレビや映像の体験は確定近似の経験をもたらすだろうし、これも資質によるだろう。いずれも、原理支配の完全証明を試みていて、無意識支配だ。無意識が主体となって証明しようとしている。死体を執拗に損壊させるのも、同じく確定したくとも確定できないジレンマから生じている。

 

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 確定欲求(実際には表象からの指示・命令である。実質的な意味では、無意識からの指示・命令という表現でもいい。非実在的な何者かに命令されて銃を乱射したケースがあるが、これは行為の実行の構造としては異常ではなく、普遍的である)の高まりは、周期性支配から普段から離脱していれば、防げるはずだ。同一的行動、または一見して非同一に見えて周期性のある行動(勾配的行動)を自発的に避けていれば、その傾向が強くとも、抑制は働く。同一的行動とはたとえば、一か所にいることで、ひきこもりに相当する。変化のない場所にいる事は同一性の再現であって、周期性に外ならない。同じ場所に長時間滞在すると、周期性に取り込まれる。周期性と同一性は、時空間の必然性を消すという意味で、同じ意味を持つ。いつも同じパターンの行動を繰り返すのも周期性だ。アイスクリームが好きなので昂じていろいろなアイスクリームを食べるようになり、余計にアイスクリーム好きになる。または趣味が昂じて給料の全てをつぎこむようになる。(これも確定性の欲望とその勾配的増幅に従っている)。という一見して変化のように思える行動も周期性を意味する。これは勾配的な周期性を持つ行動だ。行動が同一性、周期性に収束している場合には、既に無意識支配の傾向を表している。しかし、我々は一つ家に留まり、同じ会社に同じ経路で通勤し、習慣的に趣味を実行し、嗜好品をたしなむのであって、周期性・同一性は生活の必須である。つまり周期性・同一性によって無意識支配が及んでくるのは、資質や契機が必要になる。逆説的には、そのような資質を自覚できていれば、破滅的な行動は回避できるだろう。

 

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 最小単位の絶対値は仮定するだけでいい、という論理も成り立つ。ところが、この絶対値は利用方法がない。利用できないという事だ。利用方法がないのだから、仮定する必要さえないように思える。たとえば、1センチが絶対値であると確定したとする。数式は何も変わらない。1センチが10個あるから10㎝になった。これが絶対値である。これで終わりだ。そもそも1センチが絶対値であるという確定はできない。前提に戻るが、絶対値を知る事は出来ない。数字は比率に過ぎないので、絶対値を数字で表現することは出来ない。絶対値は我々には利用できないし、表現できない。従って、実在はしていないという論理も成り立つ。この世界にはないということだ。

 

すると私の考え方が間違っていた、という事が、ここで明らかになった。最小単位の絶対値と私は称してきたが、最小単位は値ではない。価値の根源は「値」(value)ではないということだ。それは当然のように思える。その最小単位を表現する道具を我々は持たないのである。数字や言葉や他の表象でも表現できない。ただし。近づくことはできるだろう。

 

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 直感的な予感としては、それは道徳ではないかと思う。我々は道徳を顕現させるために進化してきている。従って人間の明文化された道徳に、その最小単位のヒントが含まれているはずだ。未だ、それは明らかにはなっていないが、文明が少しずつ明らかにしていくだろう。全貌は顕れないはずだ。

 

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 もう少し具体的にしてみた。この最小単位は、自分の命、または自分の命をとりまく関係性というのが一つの答えだ。これは既知であるために知らないケースに相当する。

 

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 命の性質はやはり一つだと考えられる。同一性や普遍性は時空を必要としないという性質も併せ持ち、無意識的だ。命は原「私」に帰属するはずで、ここが矛盾点ではある。しかしながら、我々が世界を共有できるのは、命の性質が普遍性を持っている事に起因していると予想できる。また命は実在するにあたって、分割され(分割という構造的な変化ではないだろう)唯一無二となる性質を持つ。唯一無二性が不確実性、イレギュラー性の起源だ。唯一無二性を持った命と原「私」は同じではないか。命は世界そのものであり、命の元型はフラクタル構造の逆相(反転)の場の全体性である、とだけ予想しておく。部分は唯一無二であるにも関わらず全体性を持っていて普遍性を持つ。この矛盾的な場が命の姿だろう。

 

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 神や世界の設計者という外部視点をもたらすと、シンプルな構造で説明できる。しかし、それは所詮、アニメや漫画や映画やテレビゲームの世界だ。そのような人工的に設計された世界、設計者の存在する世界、には依然として最小単位が存在できないために、さらに上位の設計者を延々と探し求める事になる。従って、空論である。単純ではない。我々が最小単位を持っている事は明らかで、それがなければ価値や意味は生じない。設計された世界は、価値や意味を借りてきているだけだから、延々と階層構造が続いてしまう。サラ金の多重債務が続くのと同じだ。

 

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 確定性を紛らわす方法はたくさんあり、必ずしも欲望に忠実である事によってのみ確定に近くづくわけではない。欲望の分化は、この原始的確定性を紛らわすための進化とみる事ができる。集合化というのは無意識的普遍性を持つ行動だが、蟻と人間の違いは、蟻は無意識支配による集合化であり、人間は反証による結果的集合化であり、社会は道徳を含んでいる。これは、結局は、無意識と原「私」が同じ方向に向かうということを示唆しているのかもしれない。蟻は欲望(生物原理)に忠実である事により集合し、人間は生物原理に不誠実である事によって集合しているのである。

 

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 命もしくは命をとりまく関係性が基準であるのであれば、欲望は一つの分化であり、もう一つの分化が道徳であると考える事もできる。欲望は最適化原理で命を守り、道徳は反証や不確実性によって同様に命を守っているはずだ。道徳によって命を守る道は少し遠いように感じるが、全体性を考慮した場合に道徳は有効である。また最適化原理も全体性が最適化であり集合化を促す場合もある。この違いについて考えると、道徳による全体性には、個人の不確実性や多様性を含んだ全体性であるのに対し、最適化による全体性は同一性の絶対従属に依存した全体性であるという点だ。

 

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 最小単位は確定性(確定できる性質、確定される性質、確実となる性質という意味で)を持たず、値でもなく変数でもない。原理主義的な方法、すなわち公式や定理では導き出せないだけでなく、公式や定理で利用する方法がない「基準」である。そしてこの基準は普遍性を持つが、例外的に基準を持たないか、基準を利用できない人々がいる。この根拠は、発達障害者の原理主義的性向との対比に見る事ができる。彼らは、この基準を喪失したか、初めから持っていないのか、あるいは希薄であるのか、あるいは利用方法を持たないのかのいずれかだ。つまりこの基準は原「私」が持っていて、意識に転写している。意識という構造化メカニズムでは、この基準を完全理解する事が不可能である。構造的ではなく、分析を拒絶する。意識は脳が作っている。脳を表象化しているのは無意識だ。従って、意識の「私」は、無意識寄りである。無意識から常に確定性の要求がある。基準が原理主義的な方法では明らかにならないという事は、無意識は、この基準を知ることができず、また利用する事も出来ないという事と同じ意味である。

 

 無意識的には、この基準などなくても、仮定されていれば、行為の実行は行える(行為の実行は全て無意識の反射である)。基準自体は値ではないが、意味や価値の起源だ。意味や価値は比率的であり値を提示する。無意識は数学と同様に比率は利用できる。脳は、この基準を比率に変換しているはずで、でなければ意味や価値は生じない。この変換の際に多くの要素が破棄されているだろう。この基準に普遍性が在る事は既知(既知のために知らないというパターン)である。このため世界は自己参照型の主観体験であっても、客観性と普遍性を持つ客観的な体験である事も既知となる。この基準は線形的に表現すれば絶対値でありながら不確定性(非原理的という意味で)を併せ持つという矛盾を持ち合わせている。これは普遍性をもちながら唯一無二性を併せ持つという矛盾だ。この矛盾は、さらに矛盾的表現となってしまうが、絶対的普遍性が証明できない主観体験が普遍性を持つ事と一致している。

 

 この基準が絶対値と言う値ではないにしろ、共有されていると考える理由は、我々は通常、殺人を行わず、また窃盗も行わないなど、法律の中でも道徳に則った禁忌行為は忌避するという性向からも明らかである。

 

 この基準は、意味や価値という目的性を創出する。目的化されれば、最適化原理による計算が可能になる。無意識が利用できるようになるという事だ。

 

 もし、この基準がない場合には、意味や価値は学習するしかないだろう。最適化原理にどれだけ忠実でも、目的がなければ駆動しない。これはロボットと同じである。ロボットには意味や価値を与えればよい。もし基準を持たないか障害されている場合には、目的性を自己生成する事が出来ない。また普遍的かつ生得的である道徳を共有できない。

 

 無意識は(脳は)、不確定的に生成された意味や価値という目的性を次々にモデル化し、原理化していく。これが確定性の欲求である。そして次第に基準の周縁に近づくが決して到達できない。

 

 

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 あまりまとまりないが、これは私の思考のプロセスを開示したものだ。