本来的な思考、言語化や表象(イメージ)化されていない思考は反証可能性しかない。思考とは矛盾で構成されており、矛盾の枝葉を非表象的に辿り、反証不可能性を求める作業だ。しかし、意識的活動には、反証不可能には決して到達しない。意識できる事は、全て反証可能性を持つことになり、実在論的には必ず非存在が、意味論的には必ず逆説が仮定されてしまう。言語や表象は、無意識が反射反応として生成しているので、一旦、無意識的には反証不可能となっている。無意識の反射反応の際には、必ず「私」(意識)が非実在である。「私」は矛盾であり、矛盾を生成し続ける矛盾生成機能だ。

 

もし自律神経が反証可能性を抱えたままであれば、内臓の動きは支離滅裂で破綻し停止してしまうだろう。「私」は内臓の活動において不在である必要が在るが、「私」は内臓の活動を観察することができる。そして内臓の活動に対して反証的な影響力を与える事もできる。内臓は私の反証を刺激と見なして(これは内臓の細胞が「私」を観察している、ということになる)反応するが、内臓の直接的な反応においては、反証可能性はなく、反証不可能性を以て反応が実行される。この場合、内臓の各細胞の「私」(完全体の意識主体としての「私」という意味でなく、各細胞を一つの意識主体と見なす視点)が不在となって、内臓の各細胞の無意識が反証不可能性を作りだしている。観察者(=「私」、主体)は必ず矛盾を抱えて反証可能性を作り出すのであり(それが観察者の役目だ)、観察者が不在とならなければ選択は出来ない。観察は矛盾を見つける作業であって、選択は矛盾を無くす作業だ。実在論的には観察は既に選択が確定した状態(反証不可能となった状態)だが、非実在的には(形而上的、思索的、意味論的)には、観察結果は反証可能(矛盾を見つける事ができる)である。観察結果の実在に疑義を呈する事も可能だ。

 

無意識の活動においては、「私」が非実在となることによって反証可能性を排除し、一つを選択している。思考とは反証不可能性を求めて反証を作り続けることだ。思考とは、意識を利用して矛盾を生成し続ける「私」の矛盾生成機能である。反証不可能に到達する事は無いので、思考は切りが無く続く。従って言語化や表象化という選択が行われている事は、それが意識の働きではなく、無意識の働きである事を証明している。たとえ、内的な言語化や表象化であっても、それは無意識の反射反応であり、外部に対する行為と同じ類型である。反証可能性(矛盾)で構成される思考即ち意識から、一つを反証不可能とすることによって言語化・表象化されるのであり、この際、意識は不在となる。

 

会話と言うのは意識的活動そのものであると我々は考えているが、実は会話と言うのは無意識と同期している状態であり、「私」は頻繁に不在になっている。つまり会話は集中作業だ。会話の事前リハーサルは意識的であったとしても、会話が始まれば、もはや無意識的であり、「私」は頻繁に不在となる。言語化は無意識の反射反応であることを考えると、意識が先行して言語化可能性の要素を導き出して(矛盾の併存、反証可能性しかない)、無意識が選択して(反証不可能とする)言語化している。この集中状態は、原始的生物の刺激と反応に近い。

 

つまり言語生成は無意識の反射反応だ。しかし会話は確かに意識が制御している。同じ話を繰り返す人や、人の話を無視して自分の話を続ける人に、違和感を感じるのは、会話の制御は、「私」不在の反証不可能性の言語生成の合間に、「私」が実在していて反証可能性によって制御していると仮定できる。反証可能性は、意識的制御、自由意志を意味する。

 

主体とは観察者である。無意識は選択者である。観察者は反証可能性を見出す。従って、観察者が観察する前に無意識が反証不可能としなければ観察者は、一つに確定した現実を知覚する事が出来ない。確定した現実は実在的に反証不可能な一つの現実となっているが、非実在的には反証可能である。ここでいう非実在的とはイマジネーションや形而上的な思索を指す。認めたくない現実が到来することがしばしばある。だから人は驚く。驚きは非実在的な反証の反応の一つだ。しかし、意識とはもともと非実在的で形而上的な存在であり、実在的な反証可能性も非実在的な反証可能性も意識下においてはともに形而上的であることに変わりはない。意識は無意識が反証不可能とした現実を観察するのみである。

 

人間のような多細胞生物において完全体という意識主体の無意識というのは、結局、細胞という主体の無意識性である。しかし、完全体の主体としての意識は、細胞という主体性を持った観察者が提示した感覚を刺激として観察できる、俯瞰的な観察者である。

 

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たとえば、シロクマ効果がある。シロクマの事を考えるなと言われれば、余計考えてしまう意識の性質の事だ。これは皮肉過程理論とも言われ、トラウマ事案や、意識に上げたくない事柄は余計に意識に上がってくる理由を説明する理論だ。皮肉過程理論を、反証可能性と、反証不可能性の枠組みで説明する事もできる。意識が希薄になろうとする事案については、反証不可能性が高まっているのであり、反証不可能とする事が容易である為に、言語化・表象化されやすいということになる。意識は、その事柄について不在になろうとすればするほど、反証不可能性のレベルが高まるのである。

 

不快なアイデアが意識から消えていかない、侵入思考も同様だ。また、統合失調症などの幻聴症状で、自分を攻撃したり否定したり不快な言葉を話す人格が現れるのも、それらの不快な言葉が、不快であるが故に意識は不在となろうとし、反証不可能性が高まるからだ。ただ通常は、この不快な言葉は聞こえてこないのであり、不快な事、恐怖や不安に注意が注がれ、「私」が不在になろうとした為に現れるのである。この妄想の攻撃者はユングの元型でいえばシャドウである。妄想的人格は必ずしも攻撃者ではなく、教示する者や救済者であるのは、攻撃者に対する反証可能性である。

 

では、このような侵入表象がどのような構造で成立しているのか。意識は反証可能性を非表象的に創出し、無意識が反証不可能な(内的で形而上的ではあっても、その言語又は表象の存在を確定させている)言語又は表象を生成する。さらに無意識が生成した表象に対して、意識は反証可能性を創出するので、これは外部の他者と行う会話と同じ構造になる。ただし、内部の話者は自分が創出した表象なので延々と意識による反証が続き、即ち延々と会話が続き、この会話は内的には停止する原因を持たない。例えば話者が、「もうこれで終わりだ」と語ったとする。この言葉は延々と続く会話に対する意識の反証だが、「もうこれで終わりだ」という表象に対して、意識は反証を考えるので終わる事が無いのである。このパターンは、思考盗聴の被害者を自称する人が、よく遭遇する事例だ。しかし、この線形的な構造は反証を続けて矛盾を創出していく思考の在り方そのものである。ただ、通常の思考においては、言語や表象を延々と利用する事が無く、散発的、注意的だ。言語的思考は会話的思考であり、無意識と同期した集中型の思考になる。つまり言語的思考は過集中の状態であり、「私」の非実在と実在が極めて短い時間単位で繰り返されている。

 

妄想としての他者の声が聞こえる事は、それを自覚した時点で、その現象の存在も反証不可能となっている事を意味する。その声自体が反証不可能であるだけではなく、方法論的、作用機序的な因果関係の存在が反証不可能となっているということだ。ではなぜ、幻聴として他者の声が聞こえるのか?幻聴に至る因果関係は、ある程度は分かる。簡単に説明すれば過度のストレス反応である。しかし、幻聴という現象の存在する理由は不明である。この問題は、音とは一体何か?を解明しなければ決定的には分からないだろう。ところが、現代科学は音とは何かを説明できない。形とは何か、臭いとは何かも説明できない。音や形や匂いや温度..などの感覚は、少なくとも比率を実在させるための基準とか単位とか指標とか、あるいはそのような基本的な何かである事までは分かる。つまり道具的だ。それが何かという本質は説明できない。私も当然説明できない。

 

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 現実は実在論的には反証不可能でなければならばい。現実に対して実在論的な反証可能性を持ってしまった場合には、魔法主義に至る。これはパーソナリティ障害、統合失調症の傾向の一つだ。高度な科学技術が何でもできると考えるのは現代の魔法主義であり、自称・テクノロジー犯罪の被害者のほとんどの人は、この現代の魔法主義に絡め取られている精神病者である可能性が高い。しかし、超常現象や超能力は確かに実在を否定できないし、精神異常者はポルターガイスト現象に遭遇しやすくなる。このため自称・被害者の人は、魔法主義的な未知のテクノロジーを反証不可能としてしまうのである。この超常現象を含めてしまうと、反証可能性と反証不可能性の議論は、かなりややこしくなってしまうので、当面は、考慮しない事にしたい。

 

 反証不可能である事は意識に上がってこない。だから反証不可能であるのは、世界生成の方法論とか、因果とか、原理の類なのだろうが、そのような定義さえ阻む、説明も形容もできない事だ。従って表象として意識が知覚できるのは、反証不可能である「何か」に基盤を置く「何か」である。つまり、我々は「何か」によって創られた「何か」を知覚しているのであり、「何か」は永遠に道具的であって解明不可能だろう。従って、反証不可能である「何か」の基盤が変更された場合にも意識はそれを知覚できず、全く別の妄想世界に当然の如く存在する事になる。思考盗聴や音声送信はないと諭しても、それを受け入れる事は決してない。思考盗聴や音声送信はないと諭しても、「何か」の基盤が容易に元に戻る事はないからだ。これは病識のある無しとは無関係だ。病識のある無しなどは、その基盤が置き換わったか否かとは全く次元の違う問題だからだ。その「何か」の基盤には、確信や信念という意識的活動を超越した信念(他に形容しがたい)があるのである。