「私」は反証する者である。このように宣言した場合において、「私」は反証によって反証しない事もある。このような両極端に対して「私」は反証する場合に、中庸を採用する事もある。さらにこの中庸に対して反証し、「私」は両極端と中庸の中庸またはどちらかの極に近い帯域を採用する事もある。従って、私は反証によって加減を創造し、加減を知るのである。肯定に拠っては、加減を創造することができない。これが肯定型最適化システムである無意識の限界である。無意識は計算機に過ぎない。加減の創造即ち道徳の顕現が、反証である「私」の役目だ。

 

無意識が創っているのは比率型世界である。比率しか実在しない。物質的現実は比率性でのみ構築される。意識の精神的現実、内的現実も比率で構成される。しかし、一体何の比率なのか、は不明なままだ。音も大きさも形も色も、その他もろもろの知覚表象は一体何を表していて、何を基準にして分化形態があるのかが不明だ。

 

しかしながら予想はできる。それはおそらくは反道徳である。無意識が「私」と対立しているとするならば、間違いなく反道徳である。世界は無意識が最適化した表象である。無意識の最適化や合理性(論理性)は極にあり、「私」の加減とは対立する。最適化は一つの系を完結させて閉じており、加減は完結させず閉じない。最適化は一義的であって時間は不要であり、加減は延々と続く反証のプロセスが必要であることによって時間を必要とする。反証のない肯定の世界には時間が不要である上に、存在する価値も理由もない。それぞれの表象の素子は反道徳のカテゴリー分類である(カテゴリーの根源、単純化された基盤はさらに分析する必要がある)。世界(ここでいう世界とは、表象としての世界)は「私」の反証として存在しなければならない。世界は「私」の反証として存在しているために「私」と世界が実在できるということである。つまり「私」は道徳であり、世界という表象は反道徳でなければ「私」は実在できないということだ。

 

少なくとも言える事は、「私」は比率的存在ではない。正確には原「私」は比率的存在ではなく、唯一無二のイレギュラーである。無意識の最適化や、方程式などにあてはめる事ができないイレギュラーである。予想不能性を自己生成するイレギュラーである。意識の「私」は、無意識が最適化した表象や前表象によって構造化された「私」を知覚しているので、比率的な「私」(個性)を自覚し、比率的な最適化を指向していると自覚しているのだが、原「私」が既に反証し選択している。かといって二元論ではない。原「私」は常に今にあり、「私」の最前線にある。意識の「私」が知ることができるのは、過去の原「私」である。個性などという線形的に構造化された指標では、「私」のイレギュラー性は表現できない。

 

※意識における、原「私」の反証と無意識の肯定は、拮抗と統合が含まれていると予想できるが、これはまた再考したい。選択はイレギュラーであって、推論は形骸に過ぎないだろう。意識は、考える事によって苦しみを得る事だけに価値がある。思考に上がる表象や前表象とは、反証の対象でなければならないからだ。

 

表象化は苦しみを増すだけだ。もう少しだと考えると辛くなる事は誰もが経験しているだろう。もうすぐ終わり楽になる事に対する反証である。傷口は見なければ痛みはそうでもないが、流血している状態を見ると、痛みが増してくる。これは肯定型の無意識の最適化である。快は「私」によって反証され、不快は「私」の反証はなく無意識に肯定される。痛い時に、痛いと考えても、痛くないと考えても、余計に痛くなるだけだ。快である事は非実在であり反証の対象であるのに対し、不快である事は実在であり反証の対象にはならず無意識が肯定的に最適化する、ということだ。従ってネガティブ思考は実在の為の思考である。楽観主義は、深刻なネガティブ思考に耐えられる器によってのみ醸成されるのであり、根拠なき楽観主義などはない。そして、この器は強化する事ができる。器とは意識の事である。

 

つまり、内的な言語・表象が現れる統合失調症などの幻覚症状は、苦しみを増すのが必然である。快は反証され、不快が肯定される。ただし、原「私」の意識への転写機能の障害は(この障害自体が統合失調症の原因だ)、おそらくは順番的プロセスを創出し、出現する人格(ユングでいえば元型)の出現タイミングを類型的に規定するだろう。初期の段階では反証を欠いたまま(反証の強度が低いまま)、無意識に最適化された人格が出現するのであって、それは思い描いた通りの物語(敵と味方に明確に分かれた被害者世界)を演出するだろう。この物語世界は非実在である。自分が望んだ通りの世界が展開されるからだ。世界が自分の望み通りに展開したのでは、「私」と世界の同化であって、「私」も世界も非実在となる。しかし、原「私」の転写機能が回復すれば、実在を求めて、内的表象に反証する事によって、全ては「不快」の方向に収束していくことになる。転写機能が回復しないのであれば、その人は無意識が構築し続ける非実在的な妄想の世界に止まったままだ。