これまで確実性という言葉を使ってきたのだが、この言葉の一般用法に囚われていたので、私はその本質を見誤っていたと気づいた。そこで再定義したいと思う。過去の文章を全面的に修正する意欲は全くないが、以下の文章を参考に、自由に訂正してもらえれば、幸いだ。

 

 確実性という言葉の定義だが、確実にはレベルがない。確実か不確実かのどちらかだ。あえて確率にすれば0%か100%かどちらかということであり、レベルなどは存在しない。確実性という確率論的な性質は持たないということだ。一般的な用法で、確実性が高いというのは、不確実である事の言い換えとなる。確実が性質を持って変質する可能性があるとするのであれば不確実しかない。確実である事のみが確実である。確実性が高いという一般表現においては、ある事に確定する確率が高い、という表現が適切だ。あえて、確実性というものを定義すると、確実の存在可能性、確実の存在性(存在感)、確実が存在可能な場であるかどうかの可能性などだ。不確実性についていえば、不確実性があると言った時には、不確実以外にはなく、確実は既に否定されている。不確実性については高いとか低いとかは普通は言わない。不確実性については、一般的には不確実性の存在可能性の確率や、不確実性が存在可能な場である確率を指しているように感じる。あるいは、もっとシンプルに、確実性とは「確実であるという性質」、不確実性とは「不確実であるという性質」という意味で用いるのであれば、普遍的な妥当性を持つのではないかと思う。私の用法については、主としてこのシンプルな意味で使いたい。

 

 確定性についていえば、そもそも私の用法は、一般的な定義とは違うので再定義というわけではない。確定性とは、確定させる(又は確定に向かう)能動的な指向性であって、結果の性質としては用いていない。確実とする能動的な指向性でもよい。対象を確定する性質である。確定とは観察者が行うものだ。観察者は対象が自己生成した確定という結果を受動的に観察するのではないし、そのような観察は、私の「観察」の定義とは全く外れている。主観体験とは創出するものである。

 

 映像機器は観察ができない。確定は生物だけしか行えない。我々が見る映像は外部環境一般と同じである。だから映像機器は主観体験ができないし、AIも主観体験ができない。それが映像機器と生物の違いである。映像における確定は、映像を生物が観察する事によって成立する。観察結果の普遍性や客観性は、観察による確定とは無関係に論じる必要がある。映像は普遍性を持つかといえば、その視覚的な表層的表象は普遍性を持っている可能性が高いが(多分持っている。これは実在論的な普遍性として共有すべき感覚であるので疑問を差しはさみたくないという意味である。ただ証明は出来ない。数値や比率や公式で表しても無駄だ。その数値は比率や倍数しか表わす事が出来ず、最小単位の絶対値を提示する事が出来ないからだ)、視覚の像は、“その”本質が大幅に欠落していて、不確実性に満ちた感覚である。我々が何を知る為に感覚器官を持っているかという意味と、我々は何を知らないようにする為に感覚器官を持っているのかという意味は同時的に成立している。視覚で、確定し普遍性を持つ(べきである)のは像だが、それ以外の事は何も確定していない。例えば、目の前を大型のトラックが通った。この時、視覚的に確定したのはトラックの通過だけである。では、確定とは何か?という問題が提起される。特定の対象についての状態を、時間単位で抽出したということだ。これは能動的で選択的である。特定の対象とは「私」の確定性を誘引した対象だ。正確には「私」に確定を命令した対象である。実際には、具体的な単一の対象ではなく、具体的な複数の単一が組み合わさった集合的な系が、この対象に該当する。この場合に、対象の系はトラックではなく、「トラックの通過」である。トラックの通過を視覚で確定しただけで、「トラックの通過」という系の全ての情報を確定したとはいえない。「トラックの通過」系は、「トラックの通過」以外の情報を持っている。「トラックの通過」系には、エンジンの駆動も含まれるはずだ。「トラックの通過と」系の全てを確定していないために、ある時トラックが爆発して、事故に遭遇する事になる。しかし、今書いたエンジンや突発的な爆発の理由などは、欠如している情報のほんの一部だ。もっと本質的な「トラックの通過」が表現してる何かがあるのであって、それを視覚だけでは確定できない。

 

 おそらく、「トラックの通過」の本質は、差異であり比率であり、その比率の比率という勾配であることは間違いない。さらに比率の比率の比率...と延々と続く可能性が高い。色も比率で、形も比率であり、大きさも比率だ。重さも比率であり、温度も比率だ。他にも無数の比率がある。その差異は無数の指標の、不断の関連性を持つ指標群が複合的かつ多次元的に示す比率であって、三次元感覚の視覚単独で知る事は不可能だ。再三書いている通りに我々の世界には比率しか実在しておらず、絶対値が無い。世界が時間と空間を以て、動的である以上は、比率の比率は延々と時空の果てまで続くと考えるべきである。

 

この比率の比率的連鎖は、どれだけ連鎖しようとも、無意識の最適化原理であって、周期性を持っている。膨大な情報処理ができるのなら公式化できるだろう。比率がいくら比率的に変化しようとも、周期性を持ち、公式化できるのであれば、それは変化ではあるが、同一的変化である。逆説的に説明すれば、その公式は変化していない事を証明するための公式である。同一を表現するための公式だ。しかし、現実は不確定性、不確実性が支配していて、原理を逸脱した差異が存在している事を知る事が出来、間違いなく何事かが起きている事が分かる。その「トラックの通過」は「私」に対して、その本質の確定を要求したために注意を注いだのだが、「私」は、それを確定しないために視覚によって表層を確定するだけに留め、詳細には知らない事として、不確実性を証明するのである。

 

では世界は実質的には原理に絶対性を以て従属し、確定しているにも関わらず、「私」は不確実性を錯覚しているだけなのかといえば、そうではない。「私」は能動的に不確定性を与えている。観察だけではなく、行為によっても世界に不確定性を与えている。「知っているが知らない」という事は、確定性を要求されたが確定しない事である。観察者である「私」は、不確実性そのものであり世界に不確定性を与える事によって実在感を得る。「知らないが知らない」という事は、確定性を要求されていない対象に対しては不確定性を与えることは出来ないという事だ。「知っているが知っている」という事は、確定性を要求された対象に対して確定性を与える事だが、これは「私」の非実在となる。確定性を与える(確定はしていない)事ができるのは、無意識だけである。原「私」は確定を妨害する立場だ。確定性を要求された対象に対して確定性を与えるとは、行為においては一切の躊躇なく欲望に忠実であるという事だ。この場合に原「私」は既に不在であり、これは無意識による最適化原理の証明だ。観察においても、既に原「私」は不在なので、観察不可能である。悟りの境地といわれるものは、ここにだいぶ近いが、その感覚を得ているという意味で原「私」は存在する。観察不可能、無我に至れば、原「私」は消え、何も感じない。

 

たとえ確定していたとしても、確定している事を知らなければ確定してない。このシュレディンガーの猫と同じ状態の世界が主観体験である。しかし、最初の仮定の「確定していたとしても」という仮定は成立しない。なぜなら主観体験しかなく、主観体験の枠組みを外れて、何事も確定していると言うことは出来ないからである。「私」とは全く無関係に世界が確定する事はない。「私」が観察したとしても、確定できないのであれば、世界は不確実のまま推移している事になる。つまりシュレディンガーの猫でさえ、結果を観察したとしても、確定したとは言えないのである。猫の生死が確定した、といえるのかどうか、は生死についての普遍的で本質的な性質を明らかにしなければならない。では生死とは、このようなものだと仮定したことによって生死を確定した場合には、全く循環論法と言わざるを得ない。猫の生死とは、もっと本質的な別の事を隠ぺいするための視覚的な表象である可能性をどうやって否定できるというのか。

 

不確実性や不確定性の存在の根拠は、比率や倍数で表現される最小単位ではないかと考える。この最小単位は絶対値を持たない。距離の遠近感の体感や、時間の長短感は感覚だが、主観体験しかないので、結局は普遍性を持つ物理現象と等価だ。重さも、大きさも感覚的に可変性を持つ。物理現象が表わすのは比率の原理的表現であり、表現には表象を利用している。最小単位の絶対値を原「私」が非法則的に選択しているのであれば、普遍的物理現象を普遍的に共有するためには、普遍的物理現象の比率を変更せざるを得なくなり、またこの比率変化は不確実性を持つ事になる。

 

この最小単位こそ、主観体験を構成する。しかも、その最小単位は不確実性を以て予測不能である事が唯一無二の主観体験を構成する。無意識が原「私」に確定の指示を与える(表象は無意識が構築する為だ)時、この最小単位の確定を指示しているはずだ。しかし、原「私」は不確実性そのものであるのであって、私が確定したとしても、その確定は不確実な確定であった事が証明される事になる。原「私」は、原「私」という不確実性によって確定する事によって、不確実性の存在を証明し、無意識の確実性の存在証明を阻んでいるのである。

 

脳は、この不確実な確定に原理性を与えるために、神経伝達物質を放出する事になる。そして、この不確実性は、同じ状況で再現されるという原理的なメカニズムに吸収されるのである。単純化したメカニズムは次のようなものだ。ドーパミンが階層性によって確定性を勘案し指示する。ノルアドレナリンが確定させる。セロトニンは確定性を弱める。これは通常の確定経路だ。しかし、このドーパミン―ノルアドレナリン系確定経路の上位にオキシトシン系確定経路が位置し、これが固定的な階層の上位を定める。帰属意識だ。この単純化した確定経路の中で原「私」の不確実性・不確定性を表現しているのはノルアドレナリンだ。無意識の最適化原理を表現しているのはドーパミンだ。セロトニンは、この二項対立に対する反証として機能しているのは明らかで、これも原「私」を表現している。反証とは反原理主義であって、いかなる原理従属性(法則的従属性)に対しても行われるものだ。

 

発達障害は確定性が強すぎると分析する事ができる。ADHD(注意欠陥多動性障害)は、確定性が外に対して強く働き、表象の階層性に忠実である。階層性に対する反証が働かない。このため注意対象に対して次々に確定性が働く。また確定性の欲求が強く、衝動性を持つ。対象の確定は、人間の知覚では不可能なので(生物の知覚では不可能)、延々と確定しようとし、確定性は確定しようとすればするほど高まる事になる。ASD(アスペルガー)は、確定性が対象の内に対して強く働き、対象の原理・法則・規則性を確定しようとする。確定の指示者は、表象の表層的な階層性ではなく、対象の原理性、法則性である。世界の従属性、原理性、その最適化構造に魅入られ、それを確定しようとする。ADHDが最適化原理に忠実であるのに対し、ASDは最適化原理がむしろ希薄である事によって、外部に原理を求める。このため原理主義者になりやすい。いずれも原理主義者だが、ADHDは無意識の最適化原理の原理主義者だ。その原理主義の性質は生物全般の最適化原理の性質だ。一方、ASDは原理の原理主義者だ。ともに原理主義者であり、原理従属性が高いが(反証機能が弱く働く、あるいは特定の方向に偏って働くためだ)、ASDは外部の原理に対して、選択的に忠実だ。このためASDは、特定の分野や趣味に固執し、才能を発揮する事も多い。

 

オキシトシン系確定経路の確立は、命令系統の強化であり、ドーパミン―ノルアドレナリン系に依存しない原理主義的確定経路の確立である。この場合、命令系統の“強化”に留まらず、絶対的命令系統を確立する場合もある。また、オキシトシン系命令系統を経由した場合に、原「私」は完全に不在ではないが、原「私」は行為者としての権限が希薄であり、観察者に留まる傾向がある、といえる。オキシトシン系経路は、社会生活の基盤となる経路だ。集団の規範や明文化された道徳、あるいは習慣に従う傾向を持つには、このオキシトシン系経路の確立が必須である。オキシトシン系経路に対しても、通常、原「私」の反証は行われるが、カルト宗教の入信者などでは絶対性を持った経路として確立していて、原「私」の反証が行われない場合がある。反証機能が障害されている発達障害者が、このオキシトシン系確定経路(命令系統)を確立した場合に、命令や指示の絶対性を持つようになるだろう。

 

確定には動的な意味があるので、私は確定という言葉を使う。確定性とは、欲望であり願望という指向性である。あらゆる行為や思考の動因である。無意識の最適化が発動する原理である。理解する事も確定であり欲望だ。文字を読むことも確定であり欲望だ。行為の実行も確定であり欲望だ。何かを“見る”事はもちろん確定であり欲望だ。ここで言う「見る」とは観察である。従ってテレビカメラは何も見ることができない。テレビカメラは路傍の石と同じだ。そして、「見る」という観察方法は、最も何も知る事が出来ない観察方法である。生物は見る事によって、不確実性の存在を確定させている。路傍の石は見ることは出来ないが、別の方法で世界を観察している可能性はある。従ってテレビカメラも見る(撮影する)以外の方法では世界を観察している可能性がある。

 

確定性を指示するのは、階層性である。階層は表象に顕れている。階層の位階は、周波数であると考えるのが妥当だ。色は周波数で表現される階層性の指標の一つだ。表象を構成する周波数は多様だ。表象は単一ではなく、複合化し、意味も含んで系を構成するので、階層性は単純化できない。世界が最適化原理に支配されているのであれば、この階層が確定を命令し絶対従属の連鎖によって、世界に不確定性や不確実性は存在しないし、そもそも世界にダイナミクスが生じないし、そもそも世界は生じない。

 

 

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 表象は本質の一部を表現しているに過ぎない。本質を明らかにしようとしても生物の知覚では明らかにできない。むしろ、感覚器官の発達は、本質を覆い隠すために、表象を精緻に顕すように進化してきたという意味において劣化の方向である。人間の聴覚の劣性を鑑みると、聴覚、音がむしろ本質を精緻に顕しているだろう。感覚器官の進化論的発達と変遷は、階層性を覆いつくし、本質への従属を拒んできた生物の進化の歴史である。反最適化主義、反原理主義が生物の進化の歴史だ。

 

知覚は原始的であるほど、その本質をよく表している。その本質とは周波数性である。周波数性が高いほど、その感覚や表象は本質に近い。「周波数性が高い」とは、周波数という性質をより直接的に表現している、という意味である。聴覚は振動そのものであり、従って周波数性がきわめて高い。一方、視覚における色も分析すれば周波数に還元できるが、それは静的であり、周波数の性質を覆い隠してしまっている。何の変化もない部屋の空間も、実は周波数性を表現している。同一パターンの周期的再現だからである。しかし、そのことには気づきにくい。変化の無い空間に拘束されると現れる拘禁症状は、周波数支配が精神を破壊する事を示唆する。この構造はひきこもりの状態にも適用できる。嗅覚、触覚、温感も同様で、変化がなければそれらは同じパターンの反復となり、周波数性を表現する。変化が比率的である場合であっても、やはり周波数性の表現である。だが、世界には常に微細な揺らぎが存在するため、感覚(すなわち表象)の周波数性は、絶えず妨害されている。感覚とはむしろ、周波数を抽象化したものであり、周波数そのものを直接受け取ることを拒絶していると言える。その中で、音だけが例外的に突出し、高い周波数性を保持している。

 

 

 

変化のない空間の事例を挙げたが、周波数とは何も電磁波だけが持つものではない。電磁波は周波数性を表現する一つの形である。前記した距離の遠近の感覚的な差異。周波数性は、比率や倍数の忠実な再現であって、等間隔性だ。間隔の絶対値は存在できない。等間隔性を持つ距離は仮定的距離だ。地図上の距離は、最適化原理に忠実な距離だが、この距離は仮定であり、距離は絶対値として実在できない。間隔の倍数だけが実在している。この空間の等間隔性や、遠近の勾配(比率)は、基盤であって、周波数を表現している。周期性でもよい。従って、この周期性や、比率の周期性が固定であるならば、空間を必要としない。前記した通り、距離の算定方法や比率の公式は、空間を消失させる役割を持つ。原理に忠実な世界は空間を必要としないのである。等間隔性、周期性、忠実な再現性は、空間の消失と同じ意味を持つ。時間も同様だ。聴覚は、時間的周波数性を表現しており、純粋な周期的リズムに没入した場合には、時間感覚は消失する。聴覚が時間感覚であり、空間感覚ではないことは、以前述べた通り、距離感を欠いた音が実在できることからも明らかである。距離が消失しても音は成立するが、時間的変化が失われれば音は成立しない。

 

最適化原理とは、時空間を消失させる原理だと言い換える事もできる。従って、生物は、この周波数性から逃れるために、感覚器官を発達させ、周波数の受容帯域を狭めてきたのである。感覚器官で抽象化されていない周波数は世界に充溢している。そしてむしろ世界は周波数で構成されているといえる。電磁波だけではないし、電磁波はそもそも仮定的な媒介である。電磁波は計測したり、実証しようとした時に存在が仮定される周波数性である。従って、我々人間の知る世界は、このようになっている。周波数が世界を構成するのであって、それは生物種ごとに、感覚器官の種類ごとに、または周波数性の受容の仕方ごとに、世界が違うということだ。原始的生物は、比較的に直接的に周波数性を受容していただろう。そして比較的に最適化原理に忠実であったはずだ。