世界は比率(倍数を含む)だけしか存在せず、絶対値はない。たとえば、時間も度量衡の数値は倍数であって、最小単位の絶対値はない。この最小単位を決定するのは、前回、原「私」だ。原「私」は不確実性そのものであり、従って、観察も行為も不確実性や不確定性を持っている。

 

 さらに考察したのだが、この最小単位は、依然として絶対値を確定する事が不可能だ。フラクタル構造の場に不確実性や不確定性が投入されたという、ただ、それだけで最小単位の絶対値を確定する事はできない。従って、この最小単位は不確定性そのものである。この最小単位は、一般的に心とか魂とか根性とか言われるものに等しいだろう。最小単位は、無数のカテゴリーを持つだろう。大きさや重さなどの度量衡だけでなく、感情や正義感などの最小単位でもあるだろう。この最小単位は、価値や意味の創出につながっている事は明らかだ。そして、この最小単位とは、まさに不確実性そのものである原「私」が決定する不確定性・不確実性なのである。わかりやすく言い換えれば、意思決定は原「私」が「勝手に決めている」。だから自由意志は揺るぎない。「勝手に」とは「不確定性・不確実性をを以て」、「非法則的に」という意味だ。

 

原「私」の不在状態で、無意識が最適化原理によって選択を行う時がある。夢遊病や解離性同一性障害だ。この場合、無意識が最小単位の値は過去のモデルを参照して、確定的に確定している。無意識が最小単位の値を持っている可能性は、その原型がフラクタル構造であるために、あり得ない。フラクタル構造の場は、絶対値の必要のない場であるからだ。

 

つまり無意識はこの最小値を求めようとしている。これが欲望の原理だ。欲望とは無意識の最適化原理が求めている地点だ。意識の「私」は、無意識と原「私」との拮抗によって構成されているが、無意識寄りである。でなければ行為は生じない。行為とは確定性への指向性だからだ。行為とはこの最小値を確定しようとする事だ。原「私」が不在で実行される行為は、意味の無い行為になる。最小単位を確定するために行為が行われるのであって、予め最小単位が仮定されているので、行為はただ行為の為に行われている。

 

人間において意味解釈能力が格段に優れているのは、この最小単位の不確定性を保持する能力に優れているからだと予想できる。絶対値が確定できない最小単位を不確定性の性質を以て、絶対値のように運用する方法は不明としか言えない。しかし、それは定理や公式では表現できない不確実性であり、比率的な運用ではない事だけは分かる。

 

前回書いた物事の本質とは、この最小単位だ。つまり、世界の本質は外に在るかの如く感じるが、それは感覚器官の性質によるものであって、本質は、我々自身、生物自身が内在していて可変的であり不確定なのである。

 

我々が常に自己参照型である事も明らかだ。空間も時間も自分が基準である。世界は「私」を中心に展開しているのであり、その根拠は、世界の最小単位を決定するのは原「私」であるからだ。

 

過集中状態での、超越的身体能力の発揮も、この最小単位が可変的で不確定性を持っているためだ。