構造の元型はフラクタル構造ではない。構造の元型は唯一性だ。唯一である事、一つである事が世界生成、存在の初期構造だと仮定する。これは一元論である。この反構造がフラクタル構造だ。フラクタル構造は二元論以上の多元論展開、複合的二元論の基礎となる。
私の実体が存在し、そして私という概念が在る。これは二元論だ。この相似性はフラクタル構造に由来する。(相似的だが、同一ではなく、近似であるのは、別の反構造に拠る)。カラスのように見える鳥は、たいていの場合カラスだ(これも同一ではなく近似であって、不確実性が在る。これは予測のフラクタル構造だ)。これも二元論だ。一番人気の馬が一着になる確率が高そうに思える。これもフラクタル構造だ(これも予測のフラクタル構造だ)。世界の展開、現実の展開が、断絶的に変化せずに、連続性を持って変化していく事もフラクタル構造の近似的展開だ。予測とは、フラクタル構造を利用しているともいえるし、世界がフラクタル構造で在る事を主体が暗黙知として確信しているために行うものである、ともいえる。予測は、二元論の多元的展開だ。論理構造も二元論の多元的展開だ。文章も同様だ。世界が記述可能である事は、主体が世界をフラクタル構造として見ているということを意味する。記憶の想起もフラクタル的展開だ。純粋フラクタル構造ではなく、フラクタル構造近似(つまりフラクタル“的”、またはフラクタル構造“的”)であるのは、不確実性のためであり、不確実性が新たな構造を導出するためだ。
唯一として存在する事は一元論である。存在する、とは世界(または場でもいい)に出現している、ということだ。唯一でありながら、世界に出現する方法を考えた時に、宇宙の在り方が、そのヒントを与える。宇宙には外部がない。宇宙は唯一性という初期構造を保存している。唯一性が外部を持たずに存在する方法は、内部に外部性を持つ事だ。存在は世界を内部に持つ事に拠って存在する事ができる。これが構造の元型だ。人間意識の在り方と全く同じだ。我々は主観体験しかできないのだが、これは世界を内部に持っているということだ。この唯一性という初期構造は物質を含む存在の全てが共有している。フラクタル構造は、この反構造だ。フラクタル構造という初期構造もまた存在の全てが共有している。そして唯一性のフラクタル展開が世界の展開の始まりだ。
唯一性の構造には主・客がない。フラクタル構造では主・客は同一的に存在する。
フラクタル構造は、全体性と局所性が普遍的に相似性を持つ構造だ。自然界によくみられる構造で、拡大縮小しても同じような構造が次々に現れる。しかし、この説明は、純粋フラクタル構造の説明としては不十分だ。一般的に言われている、フラクタル構造は、フラクタル構造の反構造であって、線形の方向性を持っている。よく例に挙げられる、木の枝にしても、木から最初の枝、次の枝、次の枝・・・と相似形が続くが最初の木には到達しない。これは線形性という反構造が加わったためだが、フラクタル的同一性は維持されている。つまり、枝も、木全体も、同じ木である。このフラクタル的同一性が、どのレベルで維持されているのかを考えれば、現実の表象ではない。もし現実の表象だけを見て構造的に判断するならば、枝は、その木ではない。その木の反構造である。この同一性の見方は文化に依存する。たとえば、枝は木ではない、耳は私ではない、という見方だ。
純粋フラクタル構造は、内部に外部が在る唯一性の構造を保存している。かつ、唯一性の反構造であるために、フラクタル構造には局所性と全体性が在る。フラクタル構造では、内部は外部でもあり、外部は内部でもある。イメージ的には表裏の判別ができないクラインの壺が、その構造を分かりやすく説明するが、これはフラクタル構造の一面を構造化しただけだ。内部も外部も同時成立する。全体性も局所性も唯一性でありながら、主客の構造が非解離的に生まれている。
人間において心身の同一性は純粋フラクタル構造による同一性が基本だ。手が勝手にパソコンで文字を打ち始めてはいけない。脚が勝手にビルの屋上から外に向かって歩いてはならない。基本ではあるが、対象化もできる。過去の自分を内省する事もある。自己同一性を探す人もいる。
対象化して同一とか同じとかではなく、対象化せずに同じとか同一であるという事、またはその感覚を表現するのは難しいが、その自己同一性の感覚は誰もが持っていて、通常は疑念に上がらないはずだ。未分化という表現も、分化可能性を前提にしているので少し違う。
対象化による同一性は客体同士の同一性であって、主体は同一性の対象ではなくなっている。まず、「今、ここ」の自分を対象化し(そして、対象化された自分は、直ちに過去の別の自分となる)、「別の時期、別の場所」の自分を対象化し、比較する事だ。自己同一性というものを意識する事は、出現している主体が不在である。
いわゆる人格の統合性というものも、複数のベクトル性人格が純粋フラクタル構造として同時展開していると見るべきではないか。つまりパーソナリティ障害の性格特性は濃淡を以て万人が共有しているのであり、パーソナリティ障害とは純粋フラクタル構造の障害だと解釈することもできる。一部のベクトル性人格が、反構造化し、単一主体となったた結果ではないか。本来的には複数のベクトル性人格のいずれもが単一の主体であるという矛盾的な人格であるべきである。どれが自分の性格なのか、自分の本性なのかは特定不可能なのであり、それらの濃淡を持ったベクトル性人格は主客の階層を持たずに、主体なのである。解離性同一性障害(DID)も同じく、人格の純粋フラクタルの障害である。この場合、ベクトル性人格という偶像が物質的に、反構造としての線形的にフラクタル展開していて、対象化されてしまう事が原因だろう。このベクトル性人格の対象化は統合失調症にもあてはまる。DIDも統合失調症も、偶像が主体に対して反構造的な展開を行う。
人間において、それぞれのベクトル性人格は制約がある。たとえ、純粋フラクタル構造の同一性を体感していたとしても、右手が勝手に文字を書いているが、左手で玉ねぎをみじん切りにする事が、純粋フラクタル的な同一性感覚を損なわない可能性を指摘しておきたい。つまり、それはおそらくはタコの同一性だ。制約とはどのようなものかを考えると、たとえば同時的に、別の事を行いたいと考える傾向のある人は、純粋フラクタルの制約を逸脱しようとする傾向のある人だと言える。たとえば、パソコンを操作しながら(あるいは書類をめくりながら)、カップ入りのアイスクリームを食べようとする事だ。カップ入りのアイスは既に両手が使えなくなる障壁を与えているが、この障壁を乗り越えようとする。この障壁は妥当性の障壁であって、現実の粘性である。物理法則もこの粘性である。粘性は純粋フラクタル構造を破壊する性質だ。欲望の共存は珍しくはないが、人体構造は欲望の同時実現に粘性を与えている。タコとは違う。タコはだいぶ、この粘性が低いと言える。この場合に、それぞれのベクトル性が強い場合には片手でパソコンを操作しながら片手でカップのアイスを握りつぶすように食べるだろう。制約はベクトル性の単一性にある。たとえば、聖徳太子は一時に、複数人の相談を聞いていたが、これも制約を逸脱している。しかし、史実が事実であるならば可能である。歴史の言い伝えは誇大表現している可能性が高いが少なくとも一片の真実は含んでいるはずだ。聖徳太子の例は複数人格の同時存在を示唆する。この場合は同一人格がフラクタル展開していたといえよう。人体構造又は生物構造又は物質構造は1主体を前提としており、この表象的に世界に出現している構造だけでは、存在の在り方を、より正確に捉える事は出来ない。それは単に出現しているだけだ。我々は表象として出現している存在を、存在と認める傾向がある、というだけの話である。
世界は外部性を持って内部に存在する。この構造は初期構造であり万物が共有している。つまり世界は内在している。人間においても、この初期構造は共有されているが、この初期構造を構造的に「世界は内部世界である」とは認識していないのが通常である。この認識の起源は知覚であり、遡れば生物の起源に至る。反応系は世界の外在化、世界の対象化の原初的な形である。物質も反応する。
生物は内部の外部性を外部に持ってきた。ここで初めて外部が生まれた、とも言えるし、ここで初めて世界が生まれたとも言える。存在の場(存在する世界)を内部から外部に持ってきたという事だ。表裏の関係の反転であり、この構造は生物が反構造として出現した構造である。世界はもともと物質においても内部の外部性という形で共有されていたのであり、この共有もフラクタル構造によるものだ。従って外部世界の共有もフラクタル構造によるものだ。世界はフラクタル構造という初期構造を持っているために、内部も外部も実在しない。内部と外部は、方向によって規定される。方向という反構造がまず必要だ。
内部の外部性は、フラクタル的に、全体性と局所性の全てを含む。従って世界も全体性と局所性の全てが出現している。表象というものは生物によって出現したのであって、生物以前に、我々の見ているような世界はない。つまり物質と称される物質も、我々が見ている形では存在していない。存在の仕方は、生物という観察者が不在の場合には、むしろ形而上的であると考えるのが妥当だ。概念的なもの、観念的なもの、法則的なもの、性質的なもの、として存在している。
一般定義のフラクタル構造は、フラクタル的構造物を対象化した構造だ。主体が観察者であり、フラクタル構造物は客体だ。我々は主体でもあり、客体でもある。主体と客体が同時成立する構造はフラクタル的だ。しかし、主体と客体は、構造の方向の違いによって生まれるのであり、方向がなければ、フラクタル的同一である。
我々は、純粋フラクタルではないがフラクタル構造の局所性である。フラクタル構造であるために、内部の外部性を共有できる。世界の共有は純粋フラクタルである「べき」だ。少なくとも構造は純粋フラクタルとして共有されている「はず」だ。つまり、ここで「べきである」や「はずである」と表現しなければならないのは、例外があるからで、それは幻覚症状や、あるいは超常現象という例外的構造が、個人や集団に出現する事があるからだ。
自然法則はフラクタル構造を維持するための構造とも言えるし、純粋フラクタル構造を破壊するための反構造ともいえる。
純粋フラクタルは方向と遮断によって、部分的にしか、その構造は出現していない。このために誰が何を考えているかは分からない。これも反構造だ。また表象的には、完全に同一のものは存在しない。純粋フラクタル構造は形而上的にしか存在しない。もっともあらゆる構造は形而上的にしか存在しない。表象は、既に純粋フラクタルではない。
唯一性構造による唯一的同一性は純粋フラクタル構造における非対象化の同一性と同じであって、主客不在の同一性ともいえるし、主客未分化の同一性とも言える。フラクタル構造における対象化の同一性は主体不在の同一性だ。つまり観察者である事を自覚している主体は、主体である事を自覚できない。客体によって自己という主体を規定する。対象化によって主体を立ち上げる。これは本来の主体の在り方ではない。観察者という表現を主体にあてはめたのは、構造的思考の持ち主だ。つまり観察者という偶像をフラクタル的に構築して、その偶像に主体の役割を与えるのであれば、主体は不在となる。ここは難しい問題だ。しかし、「意識する」「気づく」ということは必ずしも主体の在り方としては正しくない。しかも、これは切りがない。主体、意識主体、存在、観察者、行為者、などなど。これらのレッテルを貼り、固定化するのは人間の習性だ。一部の人が、そのような固定化の傾向が強いとはいえ、普遍的な人類の習性ではある。
主体は内部に在る外部性であり、この外部性は全体性であり世界そのものともいえる。世界が主体であり、現実の外部という世界を見ているが、見ているのは内部にある外部性である世界そのものだ。ここには方向性の反転という反構造がまずある。もう一つは、異なる存在となるための遮断という反構造がある。
かといって、現実は虚構ではない。つまり構造は形而上的なものだが、現実という物質性を持つ世界、表象的な世界は、形而上的なものの反構造として現前として、あるいは歴然として出現しているのである。決してシミュレーションなどという軽薄なものではない。
唯一性の構造、純粋フラクタルの構造が基底にあるのだが、この構造は既に不確実性による反構造である。展開の不均一さだけが不確実性ではない。つまり前構造の差異が生じている事は、確実性によっては生まれない。では唯一性の前構造は何かを考えると、完全性であって、それは純粋構造とも言えるかもしれないが(前記では、そう称した)、むしろ構造以前であり、構造ではなく、完全性以外の何ものでもないのではないか。というのは、構造は完全性を目指すからだ。この指向性は構造が完全性に戻ろうとする指向性ではないかと考えられるからだ。この場合トリガーは不確実性の発生とか、不確実性の出現だ。
しかし、実はもう一つ予想できることがある。つまり、恣意性なるものの起源である。人間は自由意志的存在であり、恣意的存在だ。思うに、この人間の在り方、恣意的存在としての在り方は、一つの完成形又はほぼ完成形なのではないか、と思うのである。恣意性が存在していて、それが構造と不確実性に分岐したと考える。
というのは、完全性と不確実性は結局二元論になるし、そでは起源を再び遡らなければならない。もし恣意性が起源であるとするならば、恣意的に構造が生成され始めた(あるいは構造を生成し始めた)という説明で完結する。恣意性が恣意的に構造と不確実性に分化し、構造は反構造を繰り返して新たな構造を出現させる。反構造の契機を与えるのは不確実性だ。
たとえば、我々は因果関係に従って行動する時もあれば、出現的なアイデアに従い思い付きで行動する事もある。いずれも自由意志的な行動だ。前者は構造的で、後者は不確実性的だ。この両者を合わせ持つ事こそ恣意性であり、人間が恣意的存在である理由ではないか。その意味では、生物は出現の時点で、恣意的存在だ。機械のように必ずしも構造的行動が出現しない。では原始生物と人間との違いは何かといえば、もう一つの方向性の出現であって、恣意的存在としての自覚ができるようになった事だ。
ここで誤解されては困るのだが、私は、この恣意性について、主体的な存在、あるいは神のような存在を仮定しているのではない。恣意性が起源だとすると、一般的には神を仮定したり、シミュレーションの構築者を想起してしまうのだが、この視点が我々の構造的思考の限界を表わしている。
つまり「恣意性」とは、我々が考えているようなものではなく、むしろ説明不可能性を持っている。実際のところ、自由意志や、恣意性を、言語的に説明する事はできない。言語は構造の記述しかできず、非構造は近似かもしくは否定形によってのみ記述できるのであって、説明としては不十分である。これはクオリアも同じだ。説明が不十分にならざるを得ない概念というものは、我々の構造的世界観とは別に存在するのである。
重要な事を書き忘れたが、恣意性は、構造と不確実性と、道徳に分割されたはずだ。道徳は意味に当たる。この道徳が、反構造の方向性を決定している。これも人間観察により導かれる答えだ。
構造的行動、思い付き的行動、も道徳が決定権を持つ。というのは行動は、反構造であって、フラクタル的な展開だからだ。反構造を導出する起点は不確実性だが、道徳(意味)が方向を与えているのであって決定権を持つ。というのは存在の理由が、道徳的なものの出現以外に見当たらないからだ。
内在する世界が反転し外部として“実在”するために感覚器官は外部に対峙して発達してきている。化学的な反応系は物質から引き継いだ外部化であり、世界の創出だ。物質との決定的な違いは、反応が自己参照的である事で、内部状態という反構造を対象化し、対象化した外部との同一性を遮断していることだ。つまり存在は、悉く異化しており唯一無二であるという不確実性的な反構造である。内部状態は不確実性によって創出される反構造だ。これらの反構造の創出はフラクタル構造に由来しているとも言えるのだが、フラクタル構造は、反構造を創出し続ける構造と言えるのであって、むしろフラクタルの起源は反構造である。
生物の自己参照性とは、内部状態の書き換えだ。これは世界を変更するという事だ。「外部性を以て内部に存在するが外部に存在する世界」(非常にややこしい)を書き換えることは、フラクタルな反構造の展開だ。生物は世界を変更できる。自己が変わるとは、世界が変わる事だ。好例は、私が少し動いただけで、従前の世界とは変わっている、という事実だ。これは外部への反構造の出力だが、内部世界の変更であり世界の書き換えでもある。だから生物は創造主の資格を持つ。少し外れたが、最初に書いた自己参照における内部状態の書き換えとは、内部において世界を書き換える事と、と同じ答えだ。つまり世界とは主体である自己でもあり、自己の反構造をフラクタル的に創出する事が自己参照である。これは新たな自己を創出する事、または新たな世界を創出する事と同じである、ということが理解できる。私はだいたい理解できるが、「だいたい」である。言語化、構造化はなかなか困難だ。
なかなか構造的に、つまり論理的に説明する事が難しくなってきた。直感的に、かつ矛盾的に、また感覚的に構造を記述するしかなさそうだ。
しかし、現実は矛盾している。矛盾という意味は、構造の分解を進めれば、それは不思議な現象である、という意味だ。たとえば、現実には、ねじれ構造とか、歪み構造が在る。そして人間はねじれ構造を創る事ができる。たとえば、雑巾を絞り上げると雑巾はねじれるし歪む。これは当たり前のことだろうか?時空をねじれさせ、ゆがめさせている。何故不思議に感じる必要があるのかと言えば、時空はフラクタル展開ではあるが、存在に先立って存在するものではなく、存在に付帯するものだからだ。メビウスの輪を作って、帯の真ん中を切っていくと、二つの輪がつながっている。子供の頃に、これをやって不思議に思ったのではないか?これは明らかに矛盾的現象だ。最初の輪はねじれている。輪は一つしかない。切り取った後にはねじれが解消し、輪が二つに増えている。実は、この実験を行う時に、実験者の全員が重要な誤魔化しを行わなければならない事を指摘しておく。輪はそのままでは、はさみの介入を拒絶する。部分的に輪を二つに折りたたんでから、その折り畳み部分から重なった二つの紙を切り取り始める必要がある。あるいは、輪の対向が重ならないようにゆがめて台座に配置してからカッターで切り取る必要がある。このメビウスの輪の実験は、柔らかい素材である事を前提とし、歪みとねじれを作る事を前提としている。私はこれを誤魔化しと称する。公平性に欠いていて、普遍性にも欠いている。というのは、この実験を子供の頃に行おうとした時に、その切り取り作業の非公正性にうしろめたさを感じたからだ。インチキのように感じた。この、当たり前のようだが、この何となく感じるうしろめたさは、似たような事例でいくつも感じてきた。たとえば、仕事が溜まっている時に、やっつけ仕事で適当に数をこなす、というような事例である。しかし、我々、人間は、このインチキな実験を実行できる。だから私は人間が恣意性の実体としての完成形である、または創造主と同等である、と考えるのである。私が感じたうしろめたさは、創造主としての責任を表している。道徳は学ばずとも有しているのである。これはレッテルを貼れば「原罪意識」ということになるだろう。
生物の出現以前に物質は表象としては存在してはいない。表象は生物しか持てない。物質の存在形態は形而上的である。従って、この形而上的な存在形態は初期構造として継続して存在している。物質だけの世界とは、物質的な性質を持つ存在だけの世界と言い換える事ができる。我々の表象的な世界とは全く異なる世界だ。この世界の在り様を記述する事は予想と想像しかできない。しかし、この物質だけの世界と、我々の表象だけの世界、との二重世界が存在しているというのも、まだ違う。つまりいくつもの初期構造が在り、それらの構造は階層的に反構造だが、いくつもの初期構造に付帯して、いくつもの世界が存在している事が予想され、単に二重ではなく、何重もの世界が並列的に存在していると考えるのが妥当だろう。
従って、ビッグバンというものは、物理学者が予想している形態では出現していない。生物の存在しない世界で物質の表象的生成などはない。物質の表象的な出現は生物の出現以降、この現実世界が構築されて以降である。ビッグバンを否定しているわけではない。恣意性→唯一性構造→純粋フラクタル構造→さらに異化的な反構造という形而上的な展開がビッグバンに相当すると予想する。物理学者が予想するビッグバンは、人間という観察者が観察した場合の記述だ。
さて、私はここまで書いた事について、妥当性と論理性について、世間一般の受容性を逸脱している事を自覚している(しかし、これだけで、この文章は妥当性を持つと考える)。しかしながら、私は論理構造ではなく、また、その構造的整合性ではなく、構造の方向を決定づける道徳又は意味に従って、書いている。矛盾的で論理性を逸脱しているとしても、道徳は、それらの欠陥を補って余りある基盤である、と考えるものだ。
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純粋フラクタル構造の非対象化による同一性を純粋同一性と称することにする。対象化による同一性を比較同一性と称することにする。