文章は未定の構造を扱う。行為は未定の構造の出現である。

 

 言語文法は、未定の構造を扱う未定の構造だ。普遍文法は、未定の構造を扱う未定の構造を扱う未定の構造である。これらは入れ子構造だが、それぞれが反転構造又は反構造である。直接的には自然言語は普遍文法の反転構造だ。自然言語の文字は、自然言語の反転構造だ。単語は文字の反転構造だ。また、文字以前では、文字は音韻の反転構造だ。

 

 音韻以前が少し難解だ。自然現象の模倣(これも反転構造)とするか、内的な発露(行為なので反転構造)とするかだ。

 

 従って、我々は構造的には、構造の組み合わせ方を知るだけだ。言語は構造的利便性を提供するのみだ。社会はその利便性を要求し続ける。

 

 しかし、意味的には既知の知として既に知っている。意味が反構造の生成理由だからだ。意味は、存在の理由になる。構造的には存在の理由を知ろうとすると、行き詰まる。ここは、「知る」という行為自体が構造的であるのかもしれない。

 

知るという構造は構造的なメカニズムであり、知るというのは複製構造を創るということに外ならない。つまり転写であって、それは反構造である。対象があって、その対象の構造を意識という構造に転写する事だ。まず、知覚的生物を考えてみる。知覚は反構造として入力され、知覚の出力は反構造だ。従ってそれは順構造である。これで順構造で世界を知る事になる。とはいえない。つまり主体が存在しているのであって、さらに知覚を「知る」ということになれば、さらに反構造になってしまう。世界→反構造→反構造。ここまでが知覚の構造だ。経路は同様に反構造→反構造で順構造の伝達だ(情報伝達は、全て反構造であり、神経系は反構造の入力と反構造の出力で順構造にしている。)。

 

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受容側がなぜ反転構造で受け取るのかは自明だ。世界と最初に接する境界面に映るのは鏡像である。もし世界が私に透過してくるのならば、それは順構造である。しかし、世界は私の境界の表面で鏡像のように反転している。私に映った表面においては、世界は反転している。

 

世界から見ると、私という内的な存在は反転している。境界面だけが、世界と同じ方向だ。存在の在り方としては、反転以外にあり得ないのではないかと思う。世界というものが、無数の存在で形成されていると考えた時、存在の全ては反転世界にあるといえる。真空は非存在だ。存在によってのみ真空が明らかになる。非存在と存在との境界が表象だ。

 

という考え方。

 

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しかし、これは完全構造生物である。いかなる生物も完全構造ではない。物質も同様に完全構造ではない。離散的に反構造として出現し続けている構造だ。

 

順構造で上がってきた結果を主体が知る。この主体が「知る」という事が、構造的な「知る」とは違う可能性がある。主体は、順構造を順構造としても知り、反構造としても知る。つまり可能性が固定されない。ここに生物の主体性が存在する。順構造は主体にとって対象であって分離されているのだが、構造的分離ではないということだ。構造的分離では対象は反構造である。この知覚という構造と、主体との距離、速度差というものが、「判断」というものを生み出すはずだ。

 

ここで反転すると、主体は構造としては世界を受け取ってはいないだろう。構造として受け取っているのは、脳のメカニズム「意識」である。主体は固定された結果(固定された現実の複製構造)だけでなく、未定の構造の全ての原因・理由・起源を保持している。結果の理由は、構造的には原因だが、原因―結果は、単に出現した構造の順番に過ぎない。順番に出現すれば、構造的には、それは原因→結果となるだけだ。

 

 競馬に例えるなら、別の馬を買っていれば当たっていたし、交通事故に例えるなら別の道を通ていたら自己に遭わなかったのである。これは可能性の保持だ。ただ、それだけに止まる。別の馬を買っていればよかった、別の道を通っていればよかった、と考える時、一体何がいいのか?複製構造の再生産が停止されない事だけに、利点がある。主体は何も得ず、何も失わない。主体は出現し、消えるだけだ。

 

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 不確実性というものをランダム性や乱数に求める事はできない。不確実性はむしろ、恣意性であって、自由世界の自由意志を表現する。でなければ、この世界は、ここまで残存しないだろう。かといって、決定論でもないし、全知全能者の存在もない。

 

 自由意志というもの、自由というもの、恣意的である事の、定義や概念を再考する必要がある。つまり、自由意志というものが人間特有の、進化の頂点のみに在る、という考え方が間違っている。法則ではない出現の理由が自由意志であり、それは不確実性という表現もできる、のではないか。一体誰が、不確実性というものが、あたかも完全ランダムであるかの如く提唱したのか?その根拠は何か。

 

 むしろ主体が自由意志を持つのではなく、恣意性が主体を必要とするのではないか。恣意性が生物を必要としたのではないか。恣意性は主体的な存在が起源ではない。

 

 自由意志、意志は、思い通りにすることではない。思い通りにする事は、規範従属性だ。最初の「思い」、意志が決定的でなく固定されていないものであって、しかも純粋パルスである必要がある。意思が純粋パルスで出現するという時、それは行為のトリガーを引く瞬間の純粋パルスである必要がある。在る瞬間に意思がパルスで出現したとして、合理性で推敲する時、その推敲、推敲そのものも行為であって、意志という純粋パルスが連続的に出現していると敷衍できる。視点を変えると、推敲は反構造の連鎖だが、反構造のトリガーを引くのが意思であると言える。反構造のトリガーを引くのが意思である、とすれば、これは物質にも適用できる。恣意的な純粋パルスでなければ、世界の安定性というのは実現できないのではないか。

 

 不確実性とは決定的でなく固定されていない事を示すのであり、不確実性が意思の起源だと考える。

 

 すると、むしろ主体を必要とするのは、構造側ではないか。構造は完全性であり、完全性を求める。主体という構造を必要としたのではないか。恣意性(不確実性)を主体という構造に閉じ込める事によって、恣意性を構造化したのではないか。

 

 実体の無いもの、空間幅も時間幅も持たないものは、純粋パルスとして存在しているのではないか。あるいは純粋パルスとして、この現実に出現するのではないか。真空は純粋パルスではないか。

 

 出現というのは、常に純粋パルスでなければならない。でなければ、境界的な「今」というものが、時間幅を持ってしまうことになる。

 

 時間幅や空間幅がないということによって、パルスというものは、可能性の全てを含むことができる。従って主体はパルスである事にも整合性がある。もっと正確に言えば、恣意性がパルスであって、主体は、このパルスがけん引する反構造プロセスという構造だ。

 

 

 

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 囲碁も勝ち負けはない。私は未熟なので、棋譜を見ても一見して趨勢が不明な時がある。構造的に考えていくと、つまり解説を見ると、分かる場合もあるし、それでも分からない場合もある。しかし、棋譜は、自由意志の顕現であるというところに意義や意味や価値があるのではないか。構造的には勝敗がある。将棋は全く分からないが同じではないか。敷衍すると、株式市場も同じであって、むしろこの勝敗ではないという意味において株価の変動は、それが顕著だ。

 

やはり、我々は何も得ないし、何も失わない。ということが言えるのではないか。我々とは主体であって、恣意性や自由意志に先立つものではない。主体は構造のための構造だ。主体は構造としては何かを得て、何かを失う。主体は恣意性の行使者としては、構造的に何かを得るプロセスの間隙に在り、何かを失うプロセスの間隙に在る。プロセスは結果という構造の連鎖であり、連鎖の間隙に、反構造を行う主体が存在する。

 

楽観主義の起源を考えると、主体は、存在する事よりも、プロセスの理由が重要である事を、潜在的に知っているのではないか。これは存在の形態で、どちらを重んじるかだ。構造的主体は、物質的な存在の仕方(生存、命)を重んじるが、恣意的主体・意味的主体はプロセスの生成を重んじる。これはバランスの問題だ。

 

何も得ない為に、飽くなき欲望があるのだろう。主体は何かを得ようとして得られない。何かを得ても、何も得ていない事を知る。意味的主体は何も得られない事を知っている。構造的主体が何かを得た時、意味的主体は意味を与え、何も得ていない事を構造的主体に知らしめる。これは反構造のトリガーの起点として考えられる。これもバランスの問題だ。反構造の連鎖を停止するのは、やはり主体の恣意性だ。

 

得るのではなく、またプロセスそのものでもなく、プロセスの生成に存在理由がある。

 

 

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 主体的主体構造と構造的主体構造。前者は構造の間隙に主体、意味、恣意性が介在し、後者は間隙が無い。過去の主体的構造が利用されるので、「今の主体」も意味も恣意性も不要だ。構造は、「今の主体」無しでも、構造的主体によって構造を連鎖できる(反構造を連鎖できる)。この場合、主体は外在しているとも言えるし、世界という主体、あるいは世界という不確実性、または世界という意味、と同化しているともいえる。物質的存在の仕方だ。

 

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 恣意性とか自由意志というものは、恣意的なもの、自由意志的なものであって、我々が構造化して考えているような概念や定義ではないだろう。その概念や定義は、構造的存在において、そうならざるを得ないものであって、感情と大差がないだろう。従って、恣意性は物質にも適用できるはずだ。つまり感情も感情的なものであり、人間も人間的なものであり、人格も人格的なものであり、生物も生物的なものであり、物質も物質的なものであり、世界も世界的なものだ。~的なものは生物に固有ではないという意味だ。道徳も道徳的なものであり、論理も論理的なものであり、整合性も整合的なものであり、法則も法則的なものであり、文法も文法的なものだ。

 

 また、この意味は汎心論とは違う。心というものも、やはり「心」的なものだ。存在において、「~的なもの」として共有されている、その本質は、構造的な定義とは異なる。

 

 あらゆる「それ」は、そんな感じのものである。この事は確かに我々は皆、知っているのではないか?

 

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 という形で私は構造的な分類を無効化した。全ては構造的には「未定の構造」だ。未定の構造に主体が意味を与えれば、「~的なもの」として出現する。

 

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 文章に矛盾があるかもしれないが、大体こんな感じで理解していただければ幸いだ。