普遍文法は、主体の扱い方、主体の立場を明示する生物の初期構造だ。普遍文法における主体の扱い方、立場の明示は、言語文法を形成し、言語文法は主体としての振る舞い方を明示する。主体の立場を明示する構造は、普遍文法も言語文法も変わらない。そして普遍文法は未定の構造としての言語文法を生成するために、あらゆる言語に共通する基本構造となるのである。―前回より引用―
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上記について、さらに考えたのだが、
普遍文法は、未定の構造の扱い方、未定の構造の立場を明示する生物の初期構造だ。
さらに、普遍文法は、未定の構造の扱い方、未定の構造の立場を明示する物質の初期構造だ。
さらに、普遍文法は、未定の構造の扱い方、未定の構造の立場を明示する世界の初期構造だ、とも敷衍できるだろう。
誰が扱うのかといえば、構造だ。扱うのは複製構造だ。構造が複製構造を作るマニュアルであり、複製構造の種類を規定する。言語文法は、複製構造の一つだが、主体が複製構造を作るマニュアルであり、複製構造の種類を規定する。主体における複製構造とは、原初の生物においては活動であり、反応だ。人間においては、活動(行為)であり、思考である。
構造はマニュアルではない。普遍文法がマニュアルに近い。普遍文法は意味を構造に変換する規則。この規則は表現不可能。この規則は、不確実性と表現できるが、不確実性がそもそも表現できない。
言語文法は未定の構造を扱うと仮定すると、吃音や言語障害は、未定の構造を扱えなくなる障害ではないか。つまり、固定性に膠着してしまうと、言語障害が起きるのではないか、と推定する。
現実の構造、因果的構造では、未定の構造を扱えない。確定しなければ、その周辺、あるいは扱い方が不明である。試行錯誤や見切り発車では、現実を逸脱する可能性がある。つまり脳だけでは未定の構造を扱うことは出来ない。ゼロからスタートする脳が、それだけで無限に存在する可能性を扱う事ができないのは歴然として明白だ。何も覚えず、何も分からない。
大雑把なイメージ
生物は、構造としての生物(以下:生物構造)と、主体に分けられる。生物構造は世界と主体との速度差を持つ。進化によって二つの速度差は拡大してきている。初期においては、速度差は小さい。主体、生物構造、世界は、「ほぼ」一体である。しかし、僅かであっても速度差は「対象」という構造を創出している。反応系や知覚系は、主体と生物構造との速度差と同じ意味を持つ。
主体の起源となる不確実性は、物質においては、境界無く世界と物質に遍在する。この意味は世界が主体であり、物質が主体である事が、同じ意味を持つということだ。生物においては分離されている。この意味は、世界にも主体があり、生物にも主体があるという事だ。主体性感覚の拡大は、世界との速度差の拡大に伴う。初期生物においては反応系の延伸・拡大が速度差の拡大という意味を持つ。主体は構造ではないが、主体を取り込む構造が、生物構造にはある。言い換えれば、不確実性は構造ではないが、不確実性を取り込む構造が、生物構造にはある。進化は生物構造と世界との速度差を拡大してきている。神経系の発達は速度差の拡大という意味を持つ。生物構造と主体も初期の段階から速度差があるのであり、初期の段階では、その速度差は小さい。これも進化とともに拡大してきている。だから我々人間は、精神と肉体という分離した構造を認識できる。
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初期構造に支配されると、原理的構造、決定論的構造を信じるようになる。それは不確実性を考慮しない構造で、そのようになる可能性は含んでいるが、不確実である事に変りはない。
アカシックレコード(元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念。Wikipediaより)は、原理主義の構造だ。複製構造の類型性を表しているが、類型だけでは世界は進展しない。不確実性を考慮しない世界というのは、存在し得ない。展開は、不確実性をトリガーとする反構造の働きが必要だ。順構造による展開はなく、完全因果(完全構造)は展開しない。初期構造には、不確実性の痕跡が含まれているが、それだけで世界の展開を予測し、完結させることは出来ない。
世界の展開は、反構造しかなく、順構造はない。順構造は反構造に対する反構造という様式で導かれる。生物は構造としての生物(以下生物構造)と、主体に分離されるので、主体の反構造は、生物構造の反構造となる。原始生物は、世界を反構造として知り、活動はその反構造となって終わる。従って順構造というシンプルな形だ。(ここは私の短絡的な解釈としての一例に過ぎない。本来は-と+の関係性における緻密な論理を考える事が必要だ。+は何も変えず-しか変化を与える事が出来ない、という事が重要だ)。高等生物になると、反構造の展開が生物構造で繰り返されるので、ここに単体の知性ではなく意味を含んだ知能が生じ、どこでこのミラーの繰り返しに終止符を打つかが勘案される。
視覚が、ピンホールの逆転写をさらに反構造にしているのは、反構造の進展をよく表している。右脳が左半身の制御、左脳が右半身の制御であるというねじれ構造も反構造とみる事ができる。
知覚は世界からの反構造を反構造の連鎖で知る事だ。つまり、神経細胞というものが、入力と出力で終わる構造というのは、反構造として受け取った構造を再び反構造化し順構造で次の神経細胞に渡すメカニズムだ。
反構造が無限連鎖するかどうかは、合わせ鏡が無限連鎖するのかどうかの問題と同じかもしれない。脳では記憶力の限界までミラー連鎖は可能だろう。(文章における入れ子構造の無限連鎖の限界に呼応する)。脳の限界を超えた反構造の連鎖の結果が、非時間的なパルスで出現する人はいるはずだ。たとえば意味無き構造、決定論的構造、いわゆる予言者と言われる人の見る構造だ。しかし、サヴァンや天才の見る構造でもある。この反構造の膨大な処理が、数学や物理などの科学に適用されるのであれば、それは有益だ。しかし、予言に適用されるのは、迷惑だ。いわゆる終末思想の根源でも在る。その観点では、あるベクトルの反構造連鎖の極限には、現実における存在を自己否定せざるを得ない構造があり、究極のネガティブバイアスに向かう事を示唆する。
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出現、あるいは展開と言うものは、完全同一からの反転(反構造)の働きによる、非同一性の複製の連鎖だ。
真逆とは何か?という問題がある。その次に、真逆は実在できるかという問題が生まれるが、同一構造というものが実在できない場合に、真逆も実在できない。この理由は説明困難だが、自明だという事だけは分かる。これも不思議だ。従って、真逆も、同一構造と同様に形而上的にしか存在できない。
変化とは真逆に向かう反構造の働きだが、①何が、②どう変わるか、これらを規定するのは、推定では「タイミング(不確実性の)」(ここでいうタイミングは現実時間とは無関係である)であり、そのタイミングは、重層的にタイミングを含んでいる。直感的には、こんな感じだ。
そもそも、この世界に反義語、反対概念が存在する理由は何か?、という問題がある。そもそも、それは反義語、反対概念であるのか?それは反構造の一つのあり方ではないのか?という問題も提起したい。
明るい/暗い。高い/低い。暑い/寒い。これらは指標における、位置を示す。むしろ指標そのものの存在の方が重要なように思える。温度でいえば、「高い/低い」は、温度という構造の複製構造ではないか。つまり、反構造の働きによって、温度の複製構造というものが、連続性(過去の記述通り、もちろん離散的な連続性である)を以て出現している。その計測すれば現れる数値的な違いも、違うものとして出現させる反構造の働きだ。構造が、複製構造を作り続けるというのは世界の展開の仕方であって、整合性もある。ー12度の真逆は12度ではない。現実においては、真逆は実在できない。反構造の働きがありながら、温度数値の変化という妥当性を持った変化に収束するのは、この世界の成立要因だろう。もっと言えば、「妥当性」のない変化が生じる世界では、我々は存在することは出来なかったと言える。
従って、逆境というものは存在しないだろうという事は、理解可能だ。しかし、間違い、というものが存在しないのかといわれると、これは常識的にも論理的にも受容できない。逆境は、位置に当たる。指標は境遇だ。間違いは、存在論的だ。あえて、間違いも正解も存在しないと仮定すると、それは真逆も完全同一も存在しないことと呼応する。従って、間違いも正解も存在しないといえるだろう。少なくとも現実においては。そして、前記した通り、形而上的には存在できるのであって、数学には間違いも正解も存在できるのである。
たとえば、2×2の不正解は無限に存在する。
現実については、こう考える事もできる。無数の間違いのなかから、一つの間違いが選択されている。正解を選んでいるのではない。また無数の正解の中から、一つの正解が選択されている、という考え方もできる。この起源は、この一つを選択する起源というものは、不確実性に求める事ができる。これは、もっと起源的に遡れば、数学にも適用できるのであって、我々の世界は上記の法則が適用され、かつ、その法則が連続性をもって非表象的に出現し続けているのである。
つまり存在論的には、同一も真逆も、正解も間違いも、一つの指標、一つの構造の反構造である。その一つの構造が存在の起源だ。
因果関係というのは、反構造の連鎖ということになる。人間は反構造も順構造もできる特異な存在である。
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この世界、我々が住む世界は、同一性を持った差異の連続であり、かつ差異の幅が小さい。これは我々の世界の不確実性の性質を表している。これは妥当性という性質を持っているという事だ。妥当性というものが、この世界に在るということは、既に知られている事実である。この妥当性の起源が、我々の世界の不確実性の性質であるという事だ。
事故発生率、または事件への遭遇確率、不治の病への罹患率等々。これらは一部を抽出した指標に過ぎないのだが、この確率というものも、我々の世界の不確実性の性質を表しているだろう。
飛躍的に敷衍すると、妥当性は道徳の起源だ。我々の世界は道徳的世界だ。そして、道徳的世界でなければ、人類の登場や、そもそも地球の誕生は無かったと考えるものだ。我々の世界の不確実性の性質は、少なくとも人類の登場までを保証していた、といえる。別の不確実性を起源とする世界または場は、ここまで展開できないのではないか。地球があまりにも人間にとって都合が良すぎるのは、我々の世界の不確実性の必然である。
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構造は0であるとした場合に存在は1である。存在とは、構造の反転、真逆である、と仮定すると、次の仮説が展開できる。
構造は0、反転して反構造1となる。1の反構造は0である。しかし、戻らない。ここは時間の矢のせいだが、時間の矢が先行しているのか、戻らない理由が先行しているのかは、別に論じる必要がある。反構造1は構造0の複製構造である為に、0でもある。0の性質は、1において1は非存在であるという事に受け継がれている。従って反構造1は起点0になる。ここで1を反転すると反構造2が出現する。反構造2は再び0基点となり、同様に反転して反構造3が出現する。以下、繰り返し。存在は出現した時点で既に無限の展開を含んでいる。従って1の反転は2である必要はなく3でも10でもよい。違う存在は全て反転であって真逆である。それが、それとは違う事が真逆である理由だ。
0の性質が1に受け継がれる。つまり1の中で1を見つける事ができないのは、我々の世界の性質を表している、ともいえる。これは、全く当たり前の話ではなく、我々の世界の特徴であるという意味だ。
存在は指標を作り、そこからさらに指標を創っていく、という展開だ。つまり、存在から発展し、温度などの指標が出現し、具体的な数値であっても、それはまた指標として、さらに分岐していく。
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存在は存在し続けようとし、構造はゼロに戻そうとする。
