私の定義する「非線形」と「線形」について。「非線形」は、非時間的・非空間的で、現実に出現できない純粋パルス内の因果構造その他という意味だ。また、「線形」の定義は時空に従った因果構造という意味だ。これは一般定義と違う。もっといえば非時空間的という意味で「非線形」という言葉を使い、時空間的という意味で「線形」という言葉を使っている。過去の記事は文脈で理解してもらったと思うがあらためて、ここで注意書きを記しておいた。

 

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時間幅をもたないものは実在できないが、境界は実在できる。これは不思議な現実だ。時間幅を持たない線は空間に無限に存在できるが、空間は有限だ。これも不思議な現実だ。境界は空間幅を持たないという意味でパルスだ。また今と今の直前にも境界が在るのであり、境界は時間幅を持たないという意味でもパルスだ。

 

時間については今と今の直前には間隙があるのであり、空間についても、こことここの直前にも間隙が在るのであり、この間隙はパルスとして存在していると見る事ができる。変化は不断の連続性をもっては実在できないからだ。

 

しかし、実は逆である。変化の結果がパルスとして存在していて、間隙が時空として存在している。変化の結果とは、非線形的な集合であり、変化の間隙に在るのが線形的時空だ。(時空間的な線形世界においては、同一性が維持される根拠は全くない。非線形的にその構造が保存されていなければ、同一性を持った変化とはならない)。つまり、その境界が時空である。もし、この境界がなければ、世界は現実における時空間的な始端から終端までが、非時空間的な一つのパルスとなってしまう。

 

しかし、再度、反転し、見方を変えてみる。物質の表象は非線形手続きの集合の一面を切り取ったものだ。この観点を敷衍する。

 

パルス状の境界が非線形的な手続きの集合であり、出現する現実(表象)と現実を不断の状態でつないでいる。出現する現実は、パルス状の手続きの中から不確実性によって切り取られた現実だ。連続性は、この非線形的でパルス状の手続き集合によって保証されている。

 

この現実の物質世界は離散的だ。物質の性質で構成される知覚も離散的であり、観察も離散的だ。しかし、意識体験は不断である。不断でなければ思考は成立しない。脳は離散的な現実を再構成して知覚に顕す、という考え方には全く賛同できない。例えば、言語的思考を行うとして「わたしは」と言葉を思い浮かべる。「わたしは」が構成されているとして、それが集合として出現するためには、「構成」という方法では、不完全だ。構成は、離散的であって、意味が分断されてしまう。これがもっと抽象的な非言語的な前表象であった場合でも、思考など成立しない。「わたしは」という録音テープを流すのと同じだ。では意識は、再構成されたものをただ知るだけであって、意識では思考などはしておらず、ただ、「録音テープ」を聞いているだけなのか?表象も意味も与えられているのか?というのは別の問題だ。自由意志が間違いなくある事は別項で何度も書いているので、ここでは記さない。それでも、意味は時空の展開に沿っていたのでは成立する根拠がない。意味は線形的な時空構造では成立しない。従って、意味は非線形的に時空を超越しており、また現実も非線形的に時空を超越している部分を含んでいる。

 

つまり、意識体験は時空構造の現実世界を俯瞰的な立場で見ている。意識体験は不断の連続性を持つが、現実世界は離散的だということだ。物質で構成された機器を用いて現実を観察すれば、現実の離散性が出現するが、意識体験は別である。

 

これは意識だけの話ではない。知覚について、知る事についての話であって、生物の全てに敷衍できる。つまり世界があり、その世界の知覚があり、この知覚は無意識が作ったもの(表象)として知るという場合に、知る存在は俯瞰的な場に在って不断の存在でなければ、知る事はできない。もし、現実の世界に、知るべき存在が存在していたとするならば、知覚と同期していて、知覚そのもの、知覚の法則そのものなのであって、知るという働きは生じない。知覚を録音テープだとすれば、このテープの音声が流れていたとしても、録音テープの再生速度と同じ速度で存在していた場合には、このテープの全体性を聞くことは出来ず、ある一つの存在はテープの離散的な一か所に止まるし、もし一つの存在が時間に従って同一性をもって出現し続けるとしても、意味の不明な離散的な表象が連続して顕れるだけだ。つまり世界の連続性を知る事が出来ない。しかし、完全なる無意識的存在であれば、世界の連続性を知る必要はなく、完全に世界と同期していればよい。この場合、知覚の存在理由が無くなる。つまり生物の存在理由もなくなる。

 

数学は法則が主体だとすれば問題が与えられた時点で完結する。数学を解く者は、数学の法則との同期の完全性を目指す。ここに速度差があるのであって、同期が亢進すれば、問題を早く解けるし、同期が遅滞すれば、問題を解くのが遅くなる。もし、数学の法則と完全に同期しているならば、問題も知らず、もちろん問題を解いていることも知ることは出来ない。法則は、あらゆる問題と、その答えを予め非線形的な集合として持っているのであり、問題と解はパルス状に存在している。完全同期とは、時空を必要としないということだ。パルスとして完結する。現実には、数学の得意な人は(あるいは天才は)、簡単な問題は僅かな時間でパルス的に解に導け(あるいは簡単な問題の場合は、非時間的なパルスとして解が出現しているかもしれない)、かつ難問も、このパルス的な解の小規模な連鎖で、全体性の解に導く。難問の全体性をパルス状に出現させる天才はいないだろうが、ヒントやアイデアはパルスとして出現するだろう。

 

しかし、法則は主体ではない。法則は構造だ。構造は主体として振る舞うのではない。主体は展開し、構造は展開が不要だ。構造は元型的な基礎を提供し、発展的な基礎を提供する。構造は存在の基礎ではあるが単位とはならない。数学の問題で言えば、問題を解く者が主体であって、解法を展開するが、構造そのものは、その展開を必要としない。

 

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数学は現実とは違う。しかし、数学は構造の基礎的な構造だ。「=」が構造の基礎だ。ゼロにするための法則が構造だ。存在は「1」だ。1は存在として構造を1に留め続ける。数学はゼロ構造であり、現実は1構造だ。1は無限に展開可能であり、さらに収束してもゼロにはならない。「=」は同一である事の確定が、1をゼロにする事を意味する。しかし、ならない。現実が1構造であるのは、構造が1であろうとしているためで、しかし、現実は1構造ではなく、構造が1となろうとしているだけだ。(1は構造的には存在の記号だが、存在は1として記号化できない。しかし、文章記述上は、矛盾的に1を利用せざるをえない。いろいろ矛盾を孕んでいるのだが、やむを得ない。言葉の限界と表現力の限界のためだが、読者は、文脈で直感的に理解していただきたい。定義は変遷し、文脈依存である。これは、ここに記してあることが原因だ。構造は構造を作り続ける。同じ構造を利用し続けようとするのは、同化指向であり、構造指向だ。つまり、主体が構造に負けた事を意味する。従って、これは弁解ではない)。構造が1となれば、ゼロ構造になる。1=構造、という構造がゼロ構造を意味する。

 

この{X=構造}は{X={X=構造}}の入れ子構造で無限展開する。1が無限展開するに合わせて、構造が無限展開する。現実は構造の階層的な展開の結果だ。例えば、コンビニにコーヒーを買いに行く、という現象について、この因果関係の表層の因果関係は「コンビニにコーヒーを買いに行く」であるが、この因果関係をもたらしている上層の因果関係には、習慣だからとか、コンビニが近所だからとか、コーヒーが飲みたいとか、の因果関係の細分化がある。さらにその因果関係は、細分化され、結局のところ、ベイズ推定による数学的記述となって、その記述量は膨大になる。これは行為主体側の因果関係だけであって、この行為主体の因果関係と並列して世界側の因果関係も数学的に記述され、その記述量はさらに膨大になる。加えて、コンビニとは何か、買うとは何か、この定義も因果関係だ。つまり因果関係とは構造である。上層に行くほど、その構造は普遍性を持つことになる。この構造の階層は最上層では自然法則で記述される。脳の振る舞いも行き着くところは物質の振る舞いとしての自然法則で記述されるはずである。こう考えれば現実は基礎的な構造、基礎的な法則、簡素な法則に不確実性が加わる事によって、複雑な構造、複雑な法則になっているということが分かる。構造は不確実性の混入により新たな構造を作り続けている。上層では、同一の基礎的な構造の量が膨大になるだけだ。予想では構造は一つになる。ただ、最上層の構造は、未だ探求段階といえる。この一つの構造に至る過程は、不確実性を排除する過程であり、収束の過程であり、分解の過程だ。展開は構造化であり、構造化は不確実性を与えていく事だ。再構造化は、分解後に新たな不確実性を与えていく事だ。

 

基礎構造{X=構造}の展開が、表層の因果関係に向けて入れ子で連鎖していくという事だ。表層の因果関係とは出現する現実だ。さらにいえば、それは太古の昔からの表層の因果関係からの、構造の入れ子構造の連鎖だ。つまり1と構造が、世界の起源だ。しかし、この1は構造的ではない。構造における1とは、不確実性だ。1は構造上は1として顕されるが、構造が顕す事ができるのは具体性ではなく道具性だけだ。1=不確実性を構造に拠って記述することは出来ない。従って構造は永遠に1を目指そうとすることになる。構造が1を目指すとは、構造が1を排除することと同じだ。

 

 この1は不確実性であって、1という具体性は、構造のレイヤーにおける道具的具体性であって、構造では捉えられない。これは存在を構造で捉える事はできないということだ。ここで最初に戻ると、数学は不確実性を捉えて排除するための構造であり、基礎的な構造だ。構造が、不確実性を排除する方法は不確実性と同一になる事だ。ところができない。表象は、構造が不確実性を捉えようとした痕跡だ。しかし、不確実性は捉えられない。科学も不確実性を排除しようとする試みであり、このため数学は科学に利用される。しかし、科学で現れるのは、やはり構造であり、具体的なものは、やはり構造である。名前を付けてもそれは具体性を持たない。定義を与えても循環論法から逃れられない。不確実性は観察すれば逃げる。不確実性は、数字や数学からも逃れるのであって、従って数学でも不確実性を確定できない。

 

 物理法則などの自然法則は初期に出現した因果関係=構造であって、不確実性が「小さかった」といえる。これは過去形である。因果関係=構造は不確実性の出現の後に作られる。コンビニにコーヒーを買いに行ったとか、富士山が噴火したという因果関係=構造の不確実性は大きい。現代において、不確実性はその系譜が展開し、分岐し、増大している。

 

 

知覚という構造は、刺激と反応という構造だ。原始的な無意識的生物にも自由意志はあるのであり、無意識的生物もこの構造だけで活動しているわけではない。主体は不確実性であり、原始的であれば、その主体たり得る不確実性は、ほとんど外在している。ウイルスのように漂い、たまたま栄養素に辿り着くのである。それでも、少なくとも複製を作るという箇所において内在する不確実性を行使している。

 

構造は新たな構造を作り、一度成功した構造は、再び利用される。成功した構造とは、不確実性を排除した構造だ。これは個々の主体的存在においてだ。主体が不確実性であり、不確実性の排除とは主体の排除だ。行為の実行とは不確実性の排除であって、それは確定である。しかし、不確実性は逃れる。確定した行為は、過去の不確実性の痕跡である。だから我々は常に主体たり得る。主体としての立場、自由意志の行使者としての立場を失わないためには、意識主体は不確実性を失ってはならない。意識主体は不確実性を維持し続ける。因果関係先行、構造先行では主体性が失われている。主体性とは不確実性が先行して因果関係、構造を作るものだ。予測は、無意識からの構造の提示であって、選択は不確実性だ。主体が構造を利用して新たな構造を作る事と、構造が自己増殖的に構造自体によって新たな構造を作る事は違う。ここは数学の問題を解く者と、数学の法則との違いと同じだ。

 

殺人者も、空き巣も、スリの常習者も、科学者も、裁判官も、不確実性の排除に深く囚われた人々だ。ある者は殺害によって現実から不確実性が排除できると考え、あるものはお金によって自らの不確実性を排除できると考え、あるものは科学的(数学的)合理性という構造が不確実性を排除できると考え、ある者は法律という構造が不確実性を排除できると考え、それぞれ確定しようとする。

 

しかし、不確実性を排除する事は、人間の普遍的な基本的な行動原理でもある。

 

交通事故に遭った時に、不確実性はどこに存在するのか。事故当事者の双方か、一方か。それとも世界に外在しているのか。不確実性の所在とは無関係に、法的には責任の配分が検討されるが、それは不確実性の所在の確率分布とはならない。不確実性に確率など存在しない。では公平に世界に外在しているとするならば、無責任が横行する世の中になってしまうだろう。このような世の中は避けたいと誰もが思う。これが不確実性の非固定性に対する焦燥感または恐怖なのであって、万人が持っている感覚である。では、どこに不確実性が実在しているのかといえば、世界と当事者双方に実在して「いた」のである。この事故の不確実性は存在(世界と当事者)において過去に共有されていた。過去に不確実性が共有されていた歴史の一つの結末であり、プロセスだ。でなければ、事故は発生せず、また車も発明されず、また世界の展開も、生物の出現も無い。事故は連綿とした不確実性の出現で表現される、切り取られた集合だ。生物は不確実性の能動的実行者である。人間は、極めて高い能動性を持っている。非生物は受動的実行者である。従って、能動的実行者は責任を負わなければならない。この責任は共有されている不確実性とはまったく切り離されるべきものだ。

 

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パルス的な表象は非線形的な手続き集合であって、次の出現としての結果を含んでいる。また、その表象固有の結果か、存在の全てについての結果か、それはまた別の問題である。「今、そこに」現れている表象は、次の結果を含んでいるという意味だ。でなくては、次の結果の同一的連続性が保証されない。

 

包含している結果は、複数あっても、有限だろう。複数の結果の中から一つが選択される根拠は、間隙に存在する不確実性という速度が決定する。この速度とはタイミングだ。タイミングが不確実であるという事だ。例えるならば、パチンコ台の大当たりが入賞タイミングで決定されるのと同じだ。このタイミングが間隙として存在するのであって、これは時空となる。しかし、固定幅などは持たない。タイミングの違いは、時間幅のような構造ではあるが、この時間幅のような構造は体験できない。タイミングが、都度的に違っていても、時間は等間隔で推移しているように感じる。このタイミングが、存在の全てで共有されているために世界を共有できる。時空は表象の根源の投影先と考える事が出来る。

 

不確実性は現実の構造においては、外在している。それはウィルスの事例で明白だ。ウイルスの主体は外在している不確実性だ。ウィルスは自己複製を他の生物に依存しているので、非生物とされるが、主体は外在する不確実性だ。生物は内在する不確実性が主体である。生物はこの外在する不確実性を取り込むために出現したとも考えられる。つまり生物の出現理由は、存在(無意識的存在)の起源であるフラクタル構造だ。未来を予測するために生物は存在する。主体的な存在としての生物が、未来を予測するために生物が存在するのではない。無意識的存在が未来を予測するためだ。不確実性が未来を決定するのであり、フラクタル構造(無意識的存在、物質も含む全ての存在)は、不確実性に従属するために未来を予測する。予測は主体の不確実性を確定しようとする働きだ。

 

集合の切り取りタイミングで世界の結果が変わる。このタイミングが不確実性だ。この不確実性は存在で共有されているので、世界は普遍性を持った主観体験となる。この不確実性は、分割すると、固有性を持つ。それが存在の不確実性である。全体性の不確実性と、個々の存在の不確実性は親子関係にある。これは生物の親子関係にそのまま還元できるだろう。従って、この場合の分割は成分が似ている不確実性を生成するという事になる。切り取りタイミングで、展開が変わるのであれば、個々の存在で無数に多世界が展開してしまうが、不確実性の成分が全存在で共有されているために、多世界展開にはならない。

 

「似ている」というのは、同一性に不確実性が混入しているためだ。不確実性が全体性を持つ。この矛盾が生じるのはフラクタル構造による。フラクタル構造に差異がある。この矛盾が生じるのは不確実性による。

 

不確実性には系譜があるのであって、それは存在の起源に遡る。でなければ、世界の共有ができない。不確実性に系譜がある事は、不確実性の性質と矛盾している。またフラクタル構造視点では、不確実性が全て同じではない事にも矛盾がある。

 

 この不確実性は同じ系統の不確実性であり、この世界の不確実性だ。不確実性は無限に供給され続ける。でなければ世界は止まってしまう。無限である理由は、同一以外とは無限を指し示すからだ。起源は一つの不確実性であるとしても、それは存在の起源、世界発生の起源であって、別の不確実性によっては別の世界が展開されているかもしれない。

 

 不確実性には成分があり、それは構造化によって顕される近似値だ。この成分は系譜を表す。因果関係を探る事は、この成分分析に相当する。不確実性の成分の似ている成分を辿る事であり、その法則を辿る事だ。極論すれば、全ての事案や事象は、全て連動していて、ある事案は存在の全てに責任が生じるということになる。この成分分析即ち因果関係の追跡においては、飛躍は間違いではないが、社会的には間違いとされる。飛躍は、短絡思考であり、具体性が希薄になった構造(より上層の構造)をあてはめるために生じる。そのあてはめる構造は、過去の不確実性を失ったままになっている構造であり、不確実性が回復されていない構造であり、それはたとえばトラウマ事案の構造であり、絶望や失望の元になった構造だ。

 

 因果関係の追跡が線形で構造的に行われる時、集合が小さく分断されていて、間隙を持っている。これは合理的で冷静な追跡の作業だ。集合がひとまとまりになっている場合には間隙がないのであり、この場合に偏見とも、直観とも、アイデアともなり得る。総じてアイデアと称する。このアイデアは非線形的にパルスで出現する。成文分析が非時間的に行われているのだが、それ自体は思考の正常なプロセスでもある。出現する集約されたパルスの集合は小さい程合理的で冷静な分析となるということだ。

 

 

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鰻屋があって良いに香りがしてくる。鰻を食べたくなる。

 

良い香りがするので美味しい食べ物があるはずだ、とまず世界の不確実性を予測する。うな重が食べたい、と次に自分の行動を予測する。自分の行動を予測しているのであり、これは自己分解だ。自己分解には、報酬が与えられる。食べて、おいしい、と思う。これも予測であり、自己分解だ。おいしいと思う事がなぜ予測か?「今」の事実ではないか?これがクオリア問題だ。「おいしさ」を説明することは出来ない。「私」がおいしいと思っている事は予測に過ぎないのである。従って、おいしさ、とは不確実性である。ここでいう「私」とは意識の「私」であって、意識は無意識の構造化メカニズムだ。これは不確実性の説明不可能性を表している。誰が不確実性を記述できるだろうか?記述できたなら、それはもはや不確実性ではない。つまり、そこに鰻屋の存在を認めた事でさえ、予測である。たとえ鰻屋の中に居たとしても、鰻屋の中に居る事は予測である。なぜなら、「私」は(意識の「私」ではない、原「私」)は、不確実性そのものであるからだ。また鰻屋も不確実性そのものである。鰻屋がなぜ不確実性か?それは言葉について前記した通り、言葉は定義を含み、定義の記述によって新たな定義が必要になり、結果的に、ある起点の言葉の定義を正確に表すには、世界の全てを記述する必要がある。この構造は、世界を顕す表象と同じ構造である。ここで示したのは、言葉の道具性、表象の道具性であり、クオリアの道具性であり、これが世界が不確実性に盲目的に従属する事によって構築されている理由である。

 

論理性は道具を利用する。世界の表象という道具だ。しかし、どのような道具かを論理は提示できない。延々と循環する。論理性はフラクタル構造が起源であり、フラクタル構造は、単に構造に過ぎない。その意味では無意識的存在も、単に構造に過ぎない。無意識的存在は、構造に同期した存在である。従って、構造の中に存在しているとはいえない。構造の中に存在していると言えるのは、構造に同期していない不確実性だけである。

 

フラクタル構造は構造なのであって、それは人間が筒状である事と全く同じではないか。筒は、不確実性を通過させるための形状だ。袋は不確実性を捉えるための形状だ。構造は、不確実性を捉える構造として存在する。構造的なものは、不確実性を捕まえるための構造だ。筒の形状がなぜ不確実性を通過させるのに適しているのか、袋の形状がなぜ不確実性を捉えるのに適しているのか、それは合理的計算だろうから私の範疇ではない。しかし、フラクタル構造は不確実性の何たるかを知らないが、不確実性の捉え方は知っている、ということになる。不確実性は捉えられず、遷移する事も分かる。

 

 

 

構造的なもの、場的なもの、世界的なもの、提供的なもの、付与的なもの、法則的なもの、論理的なもの、これらの基礎の起源がフラクタル構造だ。実体ではないもの、存在ではないものがフラクタル構造だ。不確実性は実体であり、存在であり、直接的には定義不能性、説明不可能性を持っているが、反構造、反場、反世界、反提供、反付与、反法則、反基礎、反・非実体、反・非存在という間接的な定義はできる。

 

では、世界の最小単位、手続きの最小単位は、密度の最小単位は、やはり構造なのであって、実体はなく、不確実性を受容する構造だけがあるのではないか。つまり、物質の研究は最終的には、何も見つからず、構造的なものが見つかり、そこには実体がないということなるだろう。不確実性とは、見つける事のできない実体だ。そこに在るかの如く振る舞う実体である。

 

山は遠くから見れば山であり、近くにいけば森に変わり、さらに近寄れば木に変わり、さらに近づけば木肌に変わり、もっと近づいていけば原子や素粒子に変わる。最初の、「山」という実体はどこにいったのか?

 

「そこに在るかの如く振る舞う」とは、実体として在るが、「そこ」とは限らないという意味だ。従って不確実性は実体である。「それ」であるとも、「あれ」であるとも限らない。不確実性は具体化するが、具体的であるものは明滅し、構造だけが連続し、具体性の痕跡を残す。明滅がタイミングとしての不確実性である。

 

人間は、この不確実性を「それ」や「あれ」で捕まえようとした。物を指し示して、声を発する事で、不確実性を捕まえようとしたのである。これは予測の構造と全く同じだ。予測は不確実性を捕まえようとする事だ。しかし、「人間は」という意味は、「無意識的存在は」という意味だ。人間は不確実性であり、不確実性を自由意志として自覚できる存在だ。

 

生物は、そして人間は、無意識的存在としては不確実性を明らかにするために存在する。しかし、自らが不確実性の存在である。従って、無意識の構築する意識においては自分の事は分からず、世界も分からない。進化は不確実性を明らかにするために進んだのであり、人間がその最先端にいる事は明らかである。生物は不確実性の実体を持った出現であり、行為・活動とは不確実性の実体である。不確実性は痕跡しか残さないのであり、不確実性は動的にしか出現しない。

 

殺人犯が意図して痕跡を残したり、犯行声明を出すのは、不確実性を捉えて、固定しようとするフラクタル構造の構造的法則だ。これは、無意識的に発現しているのであって、本人は別の意図、快楽的なもの、操作的なものとして感じている。しかし、不確実性は固定されない。痕跡だけが残る。生命には不確実性が宿るが、不確実性は見当たらない。不確実性は、この現実と世界構造では矛盾的にしか出現しない。なぜなら不確実性は一期一会であるからだ。

 

殺人鬼が執拗に死骸となった被害者を損傷させる行為は、殺害に拠っても不確実性を見つける事ができなかった事の焦燥である。執拗である事は、その残忍性に不確実性を見つける事ができると信じているからである。しかし、それでも見つけることはできない。あるはずだが探しても見つからない状態の感覚は不安定な感覚、消えないもやもや感、固定したくても固定する基盤が無いという感覚だ。世田谷一家殺人事件で犯人が捜してたものは、公平性を失わせた不確実性だが、不確実性は痕跡しか残さない。不確実性そのものは見つけることは出来ない。具体的には、事件の惨状は復讐を示唆する。

 

 

 

犯罪者を捕まえても、捕まえたのは不確実性の痕跡だ。既に犯罪実行の引き金になった不確実性は消え去っている。この社会システムは、不確実性を捉えようとする努力の表れだ。食べる事も同じである。

 

固定性、確定性を求めるのは、不確実性を捉えようとする事だ。裁判官は固定性の欲求が強い。しかし、判決を下した瞬間に、不確実性は逃れる。残るのは、不確実性の痕跡としての罪人である。

 

 

 

 

 

 

 

不確実性を捉えようという構造は、不確実性がフラクタル構造を主導して現実を創っているという構造にもなる。主体性は不確実性に在るのであり、フラクタル構造はやはり構造に過ぎない。ただ、主体性=不確実性という単純な構造ではないのではないか。つまり主体性とは確実な実行力、実行性能を含んでいて、これは不確実性の確実な実行という矛盾的な実行だ。

 

不確実性は痕跡としてしか現実には出現できず、捉えられないが、生物は捉えているかもしれないし、捉えていないかもしれない受容器として存在する。動的には捉えているのであって、それは活動に現れる。不確実性の痕跡は生体として現れている。しかし、不確実性そのものは実行するだけで、自由意志の起源である不確実性そのものは、分からないままだ。生物はフラクタル構造に同期し、不確実性にも同期している。