物質は「分解のための手続き」の集合で、その物質的な性質は表象として現れる。表象とは触れる事ができるもの、見る事ができるもの、あるいは他の感覚で知ることができるものだ。
しかし、「手続き」とは抽象概念だ。物質が抽象概念でできているという事に違和感がある。逆説的には違和感があるだけだとも言える。ここは折衷で、物質は最小単位でできていて、その最小単位は分解できない、ということにしておけばよい。未だに物質を研究しているのだから、とりあえずはこれで異論はないのではないか?最小単位は何かと尋ねる人がいたらこう答えればよい。「最小単位はおそらく最小単位だ。最小単位という定義を持つものだ」。別の言葉に置き換える必要性はあるだろうか?
分解の手続きは、下層の分解の手続きに分解され、さらに下層の分解の手続きに分解されていく。手続きは最小単位に到達するまで階層的に手続きに分解され続ける。
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「私」は全ての生物における「私」とする。「私」は生体としては物質なので、やはり分解手続きで構成される。同時に世界を分解する手続きを抽象的に生成する。分解の最も根源的な方法は「知る事」であってやはり抽象的だ。抽象概念を原始生物は持たないわけではない。反応系が存在する以上は、それ自体が抽象概念である。鉄が酸素に触れて酸化鉄になる。この反応系もまた抽象概念だ。従って鉄も抽象概念を持っている。鉄は酸素を知った事になる。つまり、酸素の全てを知ったわけではないが、一部を知ったのであり、それは酸素を抽象的に分解する作業の一つであったということだ。
ここで指摘しておきたい事は、知る事は記憶を伴う必要はないのではないかということだ。
我々は過去の人生の全ての記憶を想起することは出来ないが、短期的には、あるいは瞬間的には記憶しているので、「知る」事と記憶は切り離せないものと考えている。我々の「知る」とは後から知るのであって、記憶依存である。意識的な我々が知っているのではないということだ。つまり意識の「私」は、時間的には表裏的に又は境界的に後から無意識から教えられるのである。意識の「私」が知ってから記憶するのではない。
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行為の実行は、手続きの実行なのだが、これは手続きの分解にあたる。歩くとして、これは多くの筋肉の活動と、心肺血管その他内臓の働きに分解され、つまり下層の手続きに分解される。その筋肉や内臓手続きはさらに階層的に幾重にも分解される。同時に、生体は物質的にも分解される。活動とは即ち、自己分解に当たる。そして、これは自分を知る事でもある。
「手続き」とは抽象概念のように思える。しかし、具体化される。抽象概念はなぜ具体化できるのか?「歩こうと考えて歩く。」。これは文章であり言葉なので抽象概念を表す。ここには具体化は二つあって、言語化という具体化と、行為という具体化だ。では行為は抽象概念なのか。違いは何か。例えば、「それはテーブルである」。これも抽象概念だ。物質は抽象概念ではないのか。抽象概念は具体化できるのではないか。この段は問いであって、私は特に結論を持たない。
言語以前に抽象概念は存在するのであって、人間が抽象概念を発明したわけではない。抽象概念は高密度な手続きの集合だ。言語化は手続きの低密度化だ。そのもの全てを表していない。言葉は、具体性を欠いていて、抽象的である方がより密度は高い。
前回書いた通り、手続き単位は密度単位だ。手続きは手続きで階層的に構成されるとは、密度は密度で階層的に構成されるという意味だ。階層的にとは、下層においてさらにより具体的に分解可能であるという事だ。密度は多密度である事と高密度である事は同じではない。多密度であっても、密度間が疎らで、不確実性の混入余地が多い場合には低密度だ。従って言葉は百万言費やしても低密度のままだ。多くを語って多密度にしても、疎らで不確実性だらけだ。近所のコンビニに買い物に行く事を説明するには、ほとんどの情報を廃棄しなければならない。まず、我々は生体の具体的な動作(たとえば筋肉や筋電位や神経伝達物質の活動の局所的具体性)をほとんど知る事が出来ない。では表象的に知る事のできる範囲を全て記述できるのかといえば、できない。身体をどのように動かすのかの記述さえ完璧さを全く欠くことになる。そもそも、計画された行動通りに、つまり計画された筋肉の動きを忠実に実行する事さえできない。しかし、抽象的には、その行為を知っている。
数学はどうかといえば、数学は高密度だ。数式の展開に間隙が無く、これは不確実性が存在しないといえる。しかし、数学は速度が遅い。数学の展開は、言語に比べるとはるかに低速である。数学が記述しているのは、その数学世界における最小単位の活動である。つまり数字は数学の世界における最小単位だ。現実世界においては、原子以下のレベルの、最小単位の活動を記述しているのと同じだが、現実世界で、この最小単位を記述した場合には、世界の速度と大幅に解離する事になる。記述的に、論理的に、または数学的に、数学の問題を解いても、その速度は、現実世界の速度には程遠いのだが、これは普通の人の通常の思考においてだ。
ここで天才の思考様式について考えてみる。普通の人は手続きと手続き間の手続き(及びその手続き間の手続き(及びその手続き間の手続き、以下同文))が時間軸に従って並列展開するのに対して、天才は時間を超越して階層的な下位構造となっているのではないか?
生体の活動は、手続きが分解されて下位構造になる。一方で、普通の人の思考は時間軸に沿った並列構造になる。天才は生体の活動と同じ様式で手続きを分解していると予想できる。ただ、普通の思考でも、階層的に分解されている密度集合もある。
つまり、ある手続きは、既に階層的に多重的な手続きの階層として高密度で生成されている。不確実性の混入が無い事が保証されている以上は、数式が存在した段階で答えは出ているという事だ。
むしろ生体の活動の方は、不確実性の混入しない事は全く保証されていない。
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数学が言語に比べるとはるかに低速だと書いたのは、数学は精密で具体的過ぎるためだ。もし数学で言語を作った場合に、言語活動は著しく遅滞することになる。「おはようございます」と言うのに、1時間もかかる事態になるだろう。