時間を超越しようとする事は、現実の手続きを高密度化しようとする事だ。この求める密度(これは加速度でもある)のレベルは、内在するベクトル性の加速度(これは密度でもある)と同じだ。時間は主観的で固定されていないが、手続きと順番は現実を構成するための必須の要素であり、現実を固定するものであって、それは逃れられない。焦燥感は時間的な感覚だが、焦燥感の本質は、時間的な時間そのものではない。手続きの実行可能性に対する不安である。到達地点への到達欲求とは手続きを回収する事である。焦燥感は全体性が見えた時に生じやすい。全体性が見えるとは、時空の境界がなくなり高密度化された状態を見るという事だ。
全体性が見えた時、または因果的帰結が完成した時、それは行為として実行する必要がなくなる可能性がある。やったつもりになって満足する事はしばしばある。これは蛇口を閉め忘れる事も説明する。この内的完結と外的不実行は、内的完結が外的不実行である場合を経験している場合に、逆に、内的完結が外的不実行ではなく、外的実行を伴っている場合もあるだろうと考える。つまり、これは現実と妄想の境界性を失う可能性がある。そもそも、外的現実と内的現実(決定論的に完結する予定の現実)との境界性が無くなっているから、内的完結が外的不実行で済んでしまう。ここは注意欠陥的性向や実行力を持った妄想障害、またはDIDの説明に展開する可能性を持っているが、ここまでとしておく。
焦燥感に戻ることにする。全体性が見えて内的に完結した場合に、あとは決定論的世界をなぞるだけだ。ところが不確実性は常に存在する。この不確実性の到来を恐れているために、焦燥感が現れる。ベクトル性支配が及んでいると無意識支配で不確実性を恐れる。不確実性は「私」にも、世界(環境)にもある。焦燥感の発生で既に無意識支配に傾いている。これはある程度やむを得ない。意識は無意識が構築しているので、指標を意識に顕す。焦燥感の克服はいろいろあると思うが、一つは到達地点までの全体性を小さな時空で考え、その離散的で小さな全体性を回収していくことだ。一つは、恐怖を耐え続けるストレス耐性だ。
この場合の全体性は、今の時空間地点から到達予定の時空間地点までの全体性だ。これはイマジネーションなのだが、ここに時間は存在せず、ただ手続きと順番だけがある。「私」の仕事は、この手続きに時間を与える事だ。時間は現実の手続きにしか与えることは出来ず、内的なイマジネーション上の手続きには与えることは出来ない。時間を与える事を恐れた時に、恐れが焦燥感を生み出す。手続きに時間を与える事が行為の実行であり、現実を生成する方法だ。つまり、時間そのものが不確実性を含んでいる。時間の有無が現実と非現実を隔てる。焦燥感は時間を与える事を恐れ、不確実性を恐れ、現実を恐れる事だ。
全体性を知っている時こそ、焦燥感が起きやすい。全体性が未知で、結果だけが生成されている場合にも、焦燥感がある。全体性も結果も未知の場合は、単に「恐れ」と表現される。
時間を与える事が「私」の自由意志的行為であり、無意識的行為は、それ自体は時間を持たない。従って、無意識的な行為の実行と、無意識的な行為の不実行は、ともに時間を持たない。しかし、行為の全ては無意識の反射である。意識は無意識が構築し、無意識が「私」を予測するためにある。時間を与えているのは、意識の「私」ではなく、原「私」だ。原「私」が失われた時、それは不確実性が失われた時である。この時、時間も失われている。これは現実からの離脱だ。極度の集中状態では、この状態が現れる。怒りのある瞬間には、時間が完全に消失することもある。
時間を与える事、とは速度を調整する事だ。