「信頼についての錯覚( 2025. 09. 21投稿)」記事の修正。1
「信頼についての錯覚、ストーカーとパーソナリティ障害( 2025. 09. 21投稿)」記事の修正。元記事はいつも通り散文的(境界的)なので、漸次、局所的に修正していく。
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信頼とは、自分から他者(集団でも社会でも)に対する一方向で安定した命令系統が実在しているという確信だ。従って信頼は、序列が自分より下だと認識(=蔑視、軽視)している人に対しても与えられ、この下位の人に対しては、信頼しているという認識はないが、本性を現わしたり、本音をぶつけたりする。
つまり信頼と蔑視は機能的な意味は同じだ。自分から他者に対する命令系統における不確実性が存在しない事の確信だ。
また、「信頼」とは、双方向性があるように見えるが、常に自分が確信する事である、ということだ。自分が信頼するにしても、他者が信頼するにしても、自分の確信以外にはない。他者が自分を信頼しているという確信は、客観的視点を主観的に持つ事だ。
さらにいえば、「信頼」という言葉の一般定義が先行し、本来的にはもっと別の定義があてはまるかもしれない認知的現象や、もっと複雑な認知的現象を、一般定義にあてはめたりしていたり、あるいは、その定義に認知現象が束縛されている場合もある。(これは言葉の全てに当てはまる言語活動の宿命だ。従って言葉に囚われると、自分を見失う事になる)。
たとえば、物質は信頼されている。ただし、物質に対する命令系統は、物質の明示的、顕在的な性質を超越しない。蔑視の場合も、命令系統はその人物の明示的、顕在的な性質が考慮される。信頼は命令系統の制約が少なく、蔑視は命令系統の制約が多い、と分類する事ができる。信頼と蔑視は同じ指標を顕し、レベルによって信頼と蔑視に分かれるということになる。即ち物質は通常蔑視されている。(言葉は広範に指標やカテゴリーを重複してしまうので、そこが表現の難しいところだ。信頼と蔑視では、含むカテゴリーの種類が違っているので、統一感が出せない。しかし、言葉は常に文脈依存であり、文脈で定義を自己生成していただきたい)
また物質を表す表象、世界を表す表象は、それ自体信頼によって知覚される。知覚する表象、それ自体が信頼の産物だ。この表象の信頼度は100%である。表象を信じるという意味の信頼度ではないのだが、説明困難だ。たとえるならば、現実の実在に対する与信は、世界の実在を信じる(信頼している)に先立って、知覚せざるを得ないという表現が可能な信頼度100%を表している。与えられた世界ではない、という意味で信頼に相当する。
たとえば、鍋の豆腐が少し大きい時、この豆腐を箸でつまんで自分の皿に移動させる時には、豆腐の性質を考慮した上で豆腐に対して信頼が生じる。豆腐に対する具体的な命令は、「崩れるな」だ。信頼度は状況と豆腐の性質によって変化する。不確実性が存在し、豆腐が崩れる可能性は完全には消せない。
物質的信頼(つまり蔑視)を持っている対象から、反抗的態度や暴言を聞くと、よけいに怒りが生じるはずだ。豆腐から「おたまを使え」と命じられれば怒りが生じるだろう。
怒りは、構造の欠損、修復すべき欠損が生じた事によって生じる。修復方法は、既存の材料で修復する場合、価値観の変更で済む。新たな材料で修復する場合には、分解・再構造化という比較的大掛かりな修復作業が必要になる。新たな材料は、怒りの表明で獲得するのが通常。新たな材料を必要としているのに内在した場合には、禍根が残り続け、修復の要請が延々と続き増幅される。
もっとも、これは構造を必要とする場合のモデルだ。厳密な構造などなくとも、場当たり的に、適応していくのであって、本来的には「構造」的世界に固執する必要はない。構造は生物としては必要だが、未完であることによってこそ、存在理由がある。