計画の実行では、期限が迫り否応なく実行するというパターンは誰でも経験するだろう。「子供の宿題パターン」だ。これは、行為のトリガーが行為に「時間を与える事」ではないかという仮説を導く。つまり、この事例は時間とトリガーの関係性を顕著化し分かりやすくする事例だ。
そもそも時間創出(時間感覚創出)のメカニズムは速度の調整で、複数の位相における速度間の誤差だと思うが、具体化は困難だ。ただ速度調整能力に難がある場合には、行為が衝動的になるはずだ。
遅延割引も、やはり顕著で分かりやすくなった事例だろう。遅延割引とは、将来の報酬の価値が時間とともに減少する認知的現象。即時的な報酬に傾倒するADHDにおける衝動性の高さを示す症例でもある。報酬の価値が時間とともに減少する、というのはおかしな表現だ。時間とは手続きの数であり、時間感覚そのもの、あるいは基準となる時間幅感覚は自分が決定している。誰も他者の時間感覚を決定することは出来ないし、自然法則として実在しているわけでもない。実在しているのは、手続きの数だけだ。
自分の中心点を中心に、加速度の勾配がある。これは距離の勾配は分かりやすい。距離も手続きの数を表している。自分を中心として、手続きの数が増えるほど、減速していく。これが距離の勾配だ。時間と距離は同じ素因が分離されたものである事は以前書いた通りだ。自分の中心点とは距離ゼロでもあるし、時間ゼロ即ち「今」である。報酬的なものの価値は、自分を中心として手続きの数が増えるほど減速していく、という事に遅延割引は還元できる。
たとえば、ジョギングではもうすぐで終わりだと考えると焦燥感が生じて、距離的にも時間的にも長く感じてしまう。これは手続きの数が少なくなったために、「終わり」という報酬の価値が高まったのである。ここで焦燥感が生じる事になる。この報酬の価値の高まりによって、時間の大きさ(時間感覚の大きさ)や距離の大きさ(距離感覚の大きさ)が大きくなる、ということになる。報酬の価値が時間とともに減少するのではない、ということだ。あえて、同調すれば、報酬の価値は、そこに至るまでの手続きの数が多い程、小さいと言える。報酬の価値は、手続きの減少に従った勾配で自分に向かった加速度を伴う。つまり自分に向かって走ってくる車と同じだ。ここで時間感覚は別の次元で考える必要がある。加速度に対して減速を与えなければ、時間感覚としての時間幅は大きくなり、焦燥感が生じる(時間幅の増大が先か焦燥感が先かという問題は残る)事が、論理的に導かれる。
報酬的なものは、加速度、ベクトル性をもたらす。この加速度を抑制するためには速度調整が必要だ。ここでいう加速度とは世界生成密度の高まりであり、その報酬的なものに対する鮮明さ、いわば想像力における鮮明さが増加し、再構造化を強制される。この鮮明さを失うためには、加速度を減じる必要がある。これらの加速度の誤差が「時間」で表現できるのであれば、時間が意味を創出し、価値を創出している。時は金なり、は名言だ。時間的な時間は操作的に加速度を調整する事によって生まれるのであり、この速度調整の自律性を持つ事が、時間感覚をもたらし、世界に意味を与える。と同時に世界の意味を知る。これは境界的に表裏だ。
脳を調べても、そのトリガーは出てこない。つまり速度調整の結果が表れている。神経伝達物質の動きや神経回路を調べても、トリガーは見つからない。既に、その脳の活動自体が速度調整されている。ただ原始的な生物には閾値設定がある。また細胞も閾値設定がある。この閾値設定も厳密ではないとしても、閾値設定依存だ。閾値設定依存とは、因果関係依存であり無意識支配が圧倒的だという事だ。それでも原始的な生物も、細胞も、単なる物質ではないのであり、トリガーは自律的に持っている。生物の自律的なトリガーを表現するならば、その粘性であり、柔軟性である。つまりスイッチを押せば瞬間的に何かが起きるのではない。閾値も幅が在るのであり、閾値内に選択が必要になる。
合理性に時間は必要ない。いわゆる時間的な時間は必要ない。たとえば数学には時間は不要だ。また物理にしても、時間的な時間、つまり何だかよくわからないが幅を持った時間は不要であり、手続きの数(それは時計の目盛りがシンボリックだが)だけが、分かっていればいいはずだ。
―――――
「寒い日は、暖かい飲み物が飲みたい」。寒い日のベクトル性は、暖かい飲み物に向いていて、冷たい飲み物はベクトル性が低い(人によるという意味で無いわけではない)。ここでベクトル性を含む表象は「寒い」と「暖かい」「飲み物」となる。主たるベクトル性の拮抗は、寒いと暖かい。寒いは不快であって、むしろ減速度だ。中庸にもっていくために「暖かい」にベクトル性が向かう。これは人にもよるが、極めて合理的な因果関係だ。「寒い日は、冷たい飲み物に限る」と言った場合に、特殊な性質を持つ人だという、額面通りの見解がまず一つ。この人は合理性を逸脱している、ということが分かるだけだ。つまり、因果関係に境界が生じている時に、それは合理性を逸脱している。当たり前の話だが。なぜ境界が生じるのかを考えると、「寒い」と「冷たい」で同じ減速のベクトル、ともに不快方向に向かう減速が生じていているためだ。つまりベクトル性の加減速度(量的なものを表現する)は、プラスマイナスでゼロを指向するのが合理性だといえる。 水は高いところから低いところに流れるのが合理性だが、このベクトル性、「低いところに流れる」を保証しているのは重力だが、逆説的には、重力の存在によって、水が高いところから低いところに流れた事を元に戻す事を保証している(元には戻らないが理論的に戻せる)。つまり、重力もプラスマイナスゼロの指向性を表現している。この場合、水は自律的にベクトル性を行使できないので、低いところに流れてしまう。生物はベクトル性を制御できるので、川を逆行して泳ぐ事もできる。 動物には冗談が通じない。生物的合理性に忠実だからだ。合理性は生物的合理性の、人間的分化形態だ。合理性で生きている人には冗談が通じない。合理性を逸脱した時に、額面通り受け取る。その合理性が個人の信条である場合には、その反応は比較的に普通だといえるが、柔軟性には欠ける。さらに、冗談が全く通じない人もいるが、これは合理性でしか世界を捉えていないからだ。これが発達障害者だ。合理性を欠く冗談は再構造化できない。反合理性であっても、明文化された道徳や法律は再構造化ができる。明文化されている場合には、体系が用意されているからだ。つまり、アブダクション的な、明文化されていない反合理性・反生物的合理性は再構造化できない。アブダクション的な反合理性の体系には、冗談を話す話者が個別に固有で持っているという固有性だけにあるのではなく、反合理性に対する許容度が汎用的に応用されているのである。つまり、加速(減速)に乗じた加速(減速)が生じている場合には、極端な不快をもたらすが、ストレス耐性という減速機能によって、我慢したり許容できるということだ。 従って、「寒い日は、冷たい飲み物に限る」という減速に乗じた減速の表現は、利用の仕方によって冗談となる可能性を持っている。
寒さ単体で考えてみる。寒い時、これを耐えるのはストレス耐性の一つだ。減速が生じているが、加速を生じさせて減速を上回らないにしても、減速率を下げる事ができる。これが耐えるという事だ。このような時に誰かが善意で缶コーヒーを持ってきてくれたが冷たい缶コーヒーだった。この場合、この善意を汲んで、この善意者に対して非難の言葉を掛ける事をしないのが道徳的態度だ。これは「寒さ」の減速度に、冷たい缶コーヒーという減速度が乗じているのだが、さらに減速させる必要があり、これが道徳的減速である。もう一つは、この善意者に対して、「寒い時は、冷たい缶コーヒーに限りますね」と話す事は、話者に二つの意味があり、受け取る善意者にも二つの意味がある。嫌味と冗談だ。話者も善意者も速度調整しなければ、この言葉は敵対的な意味となってしまう。やはり相互のストレス耐性が関係性の鍵を握っている。この速度調整は複雑すぎる。
「キリストは韓国人だった」
「金正恩はロボットで、パーツをロシアで作っていて、組み立ては中国が行っている」
これらの冗談の評価をAIチャットに依頼すると、批判的な回答が戻ってくる。AIチャットは何を模しているのかと言えば、発達障害者を模している。その構造も同じだ。合理性と権威主義だ。不確実性の理解は合理性ではできない。速度調整が必要だからだ。合理性には時間も速度も不要だ。
不確実性は理解するものではなく、速度調整することだ、とも言い換えられる。つまり理解を必要としない。つまり結末を用意しない。継続性をもたらすだけだ。だから道徳を理解しようとしても理解はできない。ただ理解への努力は続けるべきである、という事は言える。反道徳は道徳の相対性を絶対性に近づける。絶対性には到達できないが、到達への努力を続ける事にこそ意義があるといえる。
理解はフラクタル構造の完成であり、因果関係の完成であり、完結である。従って合理性でのみ構成されなければならない。このフラクタル構造的な理解を理解の元型だとすると、線形構造的な理解とは異なる。線形構造的な理解とは、速度調整する事だ。
「理解」の定義が文章中で、変遷しているが、読者諸氏で調整願いたい。
―――――
質問を意味する音がある。そろばんの音や、ラップ音楽の音だ。 質問は内的再構造化の命令だ。そう考えると音は全て質問を意味していて、音は、何を再構造化すべきかを指定している。 さらに、そう考えていくと、外部世界の表象は、それを再構造化する事を促している。 これは表出した表象を回収する作業だ。私は、なんとなく「回収」という言葉が最適で、使っていたのだが、これは因果関係や距離や時間と同じように、ゼロに戻す根拠だ。再構造化は速度をゼロにする根拠となる。 やはり写像世界である。
しかし、これは当たり前の話で、現実には、終わった時空の置き場所が無い。物理学では、この問題をどう解決しているのだろうか。視覚がなければ時間と空間は分離しない。視覚という概念が存在しなければ時間と空間が分離された世界構造を知る事が無い。この場合の「知る」という意味は、「知る」という事が、予め用意されたものを知るという意味ではなく、創出するという意味だ。また縦・横・奥行きという三つの距離で示される三次元構造も出現しない。この時空構造は視覚によって導かれる世界構造だ。「知る」という事は創出であり、回収である。創出するのは原「私」であり、回収するのは無意識だ。これは時間幅を持たない「今」において、表裏的にあるいは境界的に行われている。フラクタル構造的には、創出は不要なのであり、つまり現実化など不要だ。
目の前に、膨らんだ財布が落ちていれば、それは報酬的価値に瞬間的な加速度を生じさせる。眼前の財布が自分の懐に入るまでの手続きは極めて少ないので、時間感覚としての時間幅が大きくなり、焦燥感が生じる。ここで生まれている速度は複数ある。まず、報酬の加速度が最大値の近似値である事。眼前に迫って衝突寸前の車と同じだ。加速度事案遭遇により時空生成速度が高まり、即ち時空生成密度が高まっている事。世界は鮮明化する。そして「私」は加速しているか、減速しているか。加速は回収に向かい、減速は無関心だ。なぜ回収かは、もっと世界生成の理論に近づく。現実の行為としての、あるいは動詞としての回収は、世界生成的な意味での回収の意味をよく表わしている。「報酬は回収しなければならない」。敷衍すると、「ベクトル性の生じた対象は回収しなければならない」、これは生物的合理性だ。無関心は境界を作る事であり、合理性を逸脱する事だ。だから道徳である。一歩進んで、持ち主に返そうと考える事や、交番に届ける事も合理性を逸脱する。なぜ「回収」なのかと言えば、表象は原「私」が創出しているからだ。創出するのは原「私」であり、無意識が表象化する。この無意識の表象化が回収を伴う。即ち、この回収する「私」は無意識的な「私」であって、普遍的な「私」である。全ての生物が共有している、全ての生物としての「私」である。これをフラクタル構造的な「私」と定義するが、この「私」は自由意志が無い「私」だ。「私」とは、この原「私」と無意識の「私」であり、意識の「私」は、両者の拮抗を後付けで知るのである。