そもそも、フラクタル構造は矛盾構造だ。それは我々が線形構造に生きていて、現実が線形構造だからだ。構造の元型はフラクタル構造であり、線形構造が矛盾構造だ。つまり現実においてはフラクタル構造は矛盾構造であり、非現実的には線形構造が矛盾構造となる「はずだ」。私が「フラクタル構造が構造の元型である」と言う時、私に無意識的「場」の理論が潜在しているといえる。フラクタル構造の方が正しい、と、あるいは正当性があるという感覚があるからだ。

 

 人類の自然破壊を批判する時、人類がフラクタル構造の超越的破壊者である事を批判的に語ることになる。それは原始的生物やより下等な生物が、フラクタル構造に近似する活動をしている事、フラクタル構造に準じて低レベルで自然破壊を行っている事、種間は共存共栄的である事、を懐古主義的に又は減価償却的に見る事だ。生物が目指したのは、フラクタル構造の破壊だ。これは進化の流れとまったく一致し、人類が乗算的破壊者及び超越的破壊者であるのは、生物的進化に社会的進化が乗算されているからだ。

 

 ただフラクタル構造では、あるいは現実的に、近似的なフラクタル構造的生命活動では、道徳は出現しない。殺戮し、盗み、食べて寝て、殺戮し、盗み、ただ生きて、ただ死に至るだけだ。それらは全て等価的な物理現象に等しい。もし、道徳は出現する必要はないとするのであれば、人類も存在する理由も必要もない。フラクタル構造を至上の構造、最善の構造だとするのであれば、存在する権利の量的なもの、あるいは存在の正当性のレベルは進化の系統樹が下に向かうに従って増える事になる。そもそも道徳を持たなければ、自然破壊や種の存続など気にする事はない。